53:また飯抜き?
洗濯物と格闘をした翌日。
僕は、師匠のその一言で、天国から地獄に突き落とされることになる。
「的に当てるのと、動く獣に当てるのは別だ。ましてや、お前を殺そうと向かってくる相手なら尚更だ」
ダリウスは、刃引きした訓練用の投げナイフを数本僕に渡すと、森の中の開けた場所で、僕と向かい合った。
「今日から三日間、俺の攻撃を避け、隙を突いてこのナイフを当ててみろ」
「飯抜きは変わらねえ」
(また飯抜き!?)
僕の心の中で、悲鳴が上がった。
抗議する間もなく、訓練は始まった。
ダリウスが、訓練用のナイフを構える。
空気が、一変した。
昨日までの「師匠」じゃない。
僕を狩る「捕食者」の目だ。
僕は、必死に『声』に集中する。
『風の声』じゃない。
ダリウス自身の『声』だ。
彼の心臓の音。呼吸。筋肉が収縮する、硬い音。
(…来る!)
彼の心音が、攻撃の直前に「ドンッ」と一度だけ、力強く脈打つのを捉えた。
『攻撃の予兆』だ。
僕は、大きく横へ跳んだ。
僕がいた場所を、ダリウスのナイフが風を切って通り過ぎる。
(よし、避けた!)
そう思った瞬間、僕の視界から、ダリウスが消えた。
いや、違う。
僕が大きく避けることを見越して、僕の退避場所に、完璧に回り込んでいたんだ。
首筋に、冷たい感触。
「死んだな」
ダリウスの声が、耳元で響く。
「同じ場所にばかり逃げる獣は、一番狩りやすいんだぜ」
(予兆が読めても、勝てないってどういうことだ!?)
僕は、愕然とした。
二日目。
ダリウスの要求レベルが、さらに上がった。
「避けながら構えろ! 敵の体勢を見ろ!」
(避けながら、ナイフ構えて、相手の体勢を見ろ!?)
僕は、パニックになった。
「予兆」を捉え、避けようとする。
だが、「投げナイフを構える」ことを意識した瞬間、回避がコンマ一秒遅れた。
脇腹に、鈍い衝撃。
「ぐっ…!」
打ちのめされ、泥の上に転がる。
「死んだな」
回避に集中すれば、反撃の構えができない。
構えを意識すれば、回避が遅れる。
思考が、完全にパンクした。
その日は、一日中、僕は泥の上に転がされ続けた。
夕食はもちろん、抜きだ。
ずっとダリウスがいるので、森の食べ物を見つけることもできない。
三日目。
疲労と空腹で、もう限界だった。
体中が痛いし、頭も働かない。
ダリウスが、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
(もう、何も考えられない…)
彼の「予兆」が、聞こえる。
僕は、思考を捨てた。
体が覚えた動きのまま、無意識に、最小限の動きで後ろへ跳んだ。
着地した、その瞬間。
僕の右手はすでに、刃引きした投げナイフを、握りしめていた。
いつ構えたのか、自分でも分からなかった。
そして、初めて「見えた」。
攻撃を放った直後の、ダリウスの姿が。
完璧に見える。
隙なんて、どこにもない。
いや…ある。
彼の呼吸が、ほんの一瞬だけ、大きく乱れた。
次の動きに移るための、コンマ数秒の「間」。
僕が、昨日まで「隙じゃない」と見過ごしていた、あの瞬間。
(消えた光じゃない…『隙』そのものだ!)
僕の体は、僕の思考より早く動いていた。
その「隙」が消えるよりも早く。
ダリウスが、次の一歩を踏み出そうとした、その足元。
そこに向かって、僕は無意識に、投げナイフを放っていた。
シュッ!
ナイフは、ダリウスの足元の地面を抉り、土を跳ね上げた。
彼の体勢が、初めて、わずかに崩れる。
動きが、止まった。
ダリウスが、自分の足元に突き刺さったナイフを見下ろし…
やがて、顔を上げた。
その口元に、満足げな笑みが浮かんでいた。
「…見えたか、小僧」
僕は、その場にへたり込んだ。
(見えた…というか、やっと、終わった…)
「なら」
ダリウスが、僕に向き直る。
「森の連中に、相手をしてもらえ」
実戦試験の許可が下りた。
それは同時に、三日ぶりの食事が許された瞬間でもあった。
(やった…!)
(やっと、飯が食える…!!)
僕は師匠の課題を達成したことよりも、何かを食べられることの喜びに浸っていた。




