50:訓練は飯抜き
「…入れ」
彼はそう吐き捨てると、今まで固く閉ざされていた小屋の扉を、ついに僕のために開いた。
そのぶっきらぼうな言葉は、僕が弟子として認められた、紛れもない証だった。僕は肩の上のコダマと共に、緊張にこわばる足で、師となる男の住処へその第一歩を踏み入れた。
小屋の中は、彼の暮らしぶりをそのまま映したような空間だった。壁には手入れの行き届いたナイフや弓、解体用の道具が整然と掛けられている。獣の皮をなめす独特の匂いと、燻された薪の香りがした。武骨で質素だが、全ての物が少しの無駄もなく配置されている。彼が囲炉裏に火を熾すのを、僕は黙って見ていた。ぱち、と火の粉が爆ぜる。その時、彼は初めて僕の方を向き、短く告げた。
「ダリウスだ」
それが、僕の師匠の名前だった。突然の名乗りに、僕は慌てて自分の名前を告げる。
「カイ…です」
僕がそう名乗っても、ダリウスは特に興味を示した風もなく、ただ「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。彼にとって、僕の名前などまだ覚える価値もないのかもしれない。
ダリウスは、囲炉裏の火に薪をくべながら、僕が仕留めた月光兎を値踏みするように一瞥した。
「あの兎を、目で見ずに狩ったんだな」
「…はい。僕の耳が、気配を教えてくれたので」
「耳、ね」
ダリウスは、僕のその異常な感知能力を試すかのように、しばし黙り込んだ。
「…まあいい。耳はさておき、まずは目だ」
ダリウスは立ち上がると、小屋の外を指差した。
「斥候の基礎は『森の文字』を読むことだ。獣が残した痕跡、折れた小枝、踏まれた苔…森は、てめえが思うよりずっとおしゃべりだ。まずは、アレが何の足跡か、言ってみろ」
彼が指差す先には、昨夜の雨でぬかるんだ地面に、微かな痕跡が残っていた。
僕はしゃがみ込み、その痕跡に意識を集中させる。
『道の声』に、耳をあわせる。
(…軽い。四つ足。爪が鋭い…昨日の夜中、慌ててここを走って行った…)
「…森イタチ、です。昨日の夜中、何かに追われて、かなり慌てていました」
僕の答えに、ダリウスの眉がピクリと動いた。
彼は何も言わず、別の場所を指差す。
「こいつは?」
「…キツネです。三日前の朝。お腹を空かせて、獲物を探してました」
「……」
ダリウスはついに黙り込み、忌々しげに僕の顔を睨みつけた。
…やっちゃった?…でもしょうがないよね。『道の声』が教えてくれるんだからさ。
普通の斥候なら、何日もかけて「痕跡の形」から「獣の種類」を学ぶんだろうけど。
え? だめ?
「…チッ。てめえには、教える順序ってもんが通用しねえらしい」
ダリウスは、僕が彼の予想を超える速度で「森の文字」をマスターしてしまった(というか、ズルをした)ことに、苛立ちを隠せない様子だった。
「いいか、小僧! その耳に頼りすぎるな! 『声』が聞こえねえ場所じゃ、てめえはただの赤子だ!」
(まあ、その通りなんだけど…)
やがて彼は、まるで面倒くさそうに、次の訓練を告げた。
「てめえのその耳と、そのふざけた『文字』の読み方がどれほどのものか知らんが…斥候の基礎は、まず『消える』ことだ」
ダリウスは立ち上がると、僕に向き直った。
「今日から三日間で、俺の背中に触れてみろ」
背中に、触れる?
思ったより、簡単そうな課題だ。
僕は内心、安堵した。
「ただし」
師匠が、僕の思考を見透かしたように続けた。
「俺も本気でてめえを狩る。三日以内に触れなければ…今夜から飯抜きだ」
「え…」
三日間も!?
それは聞き捨てならない。
というか、なんで師匠はそんなに嬉しそうな顔をしてるんだ?
わかったぞ。サディストめ。だから『森の変人』なんて呼ばれてるんだな。
僕がさっきの課題を簡単に達成したから、いやがらせしてる?
「今のてめえは、まだ獲物の気持ちがわかっていねえ」
ダリウスはそう吐き捨てると、音もなく小屋を出て、森に消えた。
(おっと、サディストだろうとなんだろうと、三日間の飯抜きは、死活問題だ…)
僕は慌てて後を追う。
でも、自信がなかったわけじゃない。
今までだって危険な動物からは身を隠して、狩りの獲物に気づかれないように忍び寄って来たんだ。
師匠の背中くらい…!
一日目。
僕は『狩人』になった。
師匠を「獲物」として、全力で追跡する。
『風の声』や『道の声』に耳を合わせて痕跡を追う。
時々、息をひそめて、師匠の気配を探す。
…でも、おかしい。
『風の声』が、師匠の話を運んでこない。
あの人、本気で森に溶け込んでる。
気配が、完全に消えているんだ。
焦りが、僕の感覚を鈍らせる。
必死に痕跡を追うことに集中した、その瞬間。
「死んだな」
ひやり、と。
首筋に、冷たい訓練用のナイフが当てられた。
いつの間に、背後に…!?
「てめえの殺気が風に乗ってんだよ」
ダリウスは、心底呆れたように言った。
「獣はそういう匂いを嗅ぎつける。お前に合わせて言えば殺気の音か。俺を『獲物』として追う限り、てめえは永遠に俺に勝てねえ」
(殺気!? そんなもの出したつもりないぞ!)
(というか、僕の『声』がダダ漏れってことか?)
あっけなく、一日目が終わった。
もちろん、夕食は抜きだ。
二日目。
僕は作戦を変更した。
昨日の失敗は「殺気」だ。なら、殺気を消せばいい。
無心になるんだ。
嘆きの荒野でやったみたいに。
僕は『狩人』であることをやめ、思考を『斥候』に切り替えた。
師匠の思考を予測する。
僕が斥候なら、こう動く。
師匠は、その裏をかくはずだ。
こっちの道には、罠があるかもしれない。
僕は、森のあらゆる情報を読み取り、師匠の次の行動を予測した。
その時、右手の茂みで、パキリ、と小枝が折れる音がした。
(そこか!)
意識が音に集中した、一瞬。
まただ。
首筋に、冷たい感触。
「死んだな」
「てめえは俺を追っている。追う限り勝てねえ」
(なんで!? 今の音は!)
「あれは、俺が仕掛けた音だ」
ダリウスは、僕の思考を読んだように言った。
「てめえが俺の思考を読もうとするから、俺はてめえの思考に合わせた『罠』を張る。どうやっても、俺の掌の上だ」
二日目の夕食も、抜き。
もう、お腹が空いて死にそうだ。
森を歩きながら、食べられそうな実なんかがあれば、もぎ取って空腹を満たしていたが、それでお腹が膨れるわけではない。
もしかして、それが僕の痕跡になってしまっていたかもしれないけど…
三日目。
疲労と空腹で、もう限界だった。
小屋を出た瞬間から、頭がくらくらする。
そもそも飯抜きに何の意味があるんだろう? 誰か知ってる人がいたら教えてほしい。
そりゃ真剣にはなるけどさ、もう集中力もなくなってきてるし。動きも…
(もう、どうでもいいや…)
(お腹すいた…)
僕は、ダリウスを追うことを、完全にやめた。
目的は「背中に触れること」じゃない。
「これ以上、師匠に『死んだ』と言われないこと」。
つまり、生き延びることだ。
僕は『狩人』であることをやめ、『斥候』であることもやめた。
ただ、森で生きる『獲物』になった。
『風の声』を、危険を察知するためだけに使う。
『道の声』を、安全な場所を見つけるためだけに使う。
僕は、森の『声』が最も静かな場所…つまり、危険が少ない場所である岩陰を見つけて、そこに身を潜め、じっと動かなかった。
(師匠がどう動こうと、僕は知らない)
(僕はここで、ただ息を潜めるだけだ…獲物だもの…)
どれくらい時間が経っただろう。
『風の声』が、かすかな苛立ちを運んできた。
師匠が、僕を探している。
僕が動かないことに、苛立っているんだ。
(師匠、イライラしてるな…)
(でも僕は動かない。だって獲物だから…)
やがて、ダリウスが業を煮やしたのが分かった。
足音が聞こえ始めた。音を立てずに歩くのをやめたらしい。僕が隠れる岩陰に近づいてくる。
ダリウスが、僕が隠れている岩陰の近くで僕に背を向けた、その一瞬。
その背中は、僕にとって「獲物」ではなかった。
ただ、そこにある「隙」だった。
僕の体は、考えるより先に動いていた。
無意識に、音もなく、その背中に…そっと、指を触れた。
動きが、止まる。
ダリウスが、ゆっくりと振り返る。
その顔に、驚きも怒りもない。
ただ、静かな光が宿っていた。
「…見えたのか」
僕は、その場にしゃがみ込んだ。
(見えたっていうか…もうお腹すいて、何も考えられなかっただけです…)
その夜。
三日ぶりに食べたシチューは、涙が出るほど、しょっぱい味がした。
「…隠れるのは、覚えたようだな」
ダリウスが、ぽつりと言った。
僕は、ただ夢中で、匙を口に運び続けた。




