第07話 リヒテル大公とスズリ
「娘はまだ見つからんのか!? 無能どもが、いったい何をしている! 取り逃がしてからもう一週間だぞ!」
バン、と大きな音を立てて机が揺れた。いらだちに任せて机を叩いた、やせて節くれだった手を持つ白髪頭の老人は、その名をリヒテル・ヴィオランス大公という。
「も、申し訳ございません大公様。近隣の街、森、貴族たちの城に至るまで総力を上げて捜索にあたっておりますがいまだ発見できずで」
「この役立たずの穀潰しどもめが!」
居並ぶ臣下たちを腹立ちまぎれに怒鳴りつけて、リヒテル大公は机の脚を蹴飛ばすとイライラと爪を噛んだ。幼少の頃にいくら注意されても治らなかった悪癖は、三つ子の魂百までのことわざ通り御年七十を数える今になっても治ることはなかったようだ。
「なにを置いても最優先で娘を探せ。でないと」
「でないと?」
「な、なんでもないわ! とにかく探せ! 草の根分けても探し出せ!」
こぶしを振り上げて怒鳴り散らされて、臣下たちは蜘蛛の子を散らすように一目散に部屋から逃げ出していった。その後姿に舌打ちをして、大公は豪奢な椅子に深々と腰を沈ませる。
(でないと、あの魔女に不老不死の呪いをかけてもらえないではないか……!)
リヒテル大公は、先祖代々受け継いだ広大な領土を有する大公国の主だ。長年、税収と利権を目当てに国主の座にしぶとくしがみついていたが、寄る年波には勝てず最近は体力の衰えや体の不調を否応なしに感じているところだった。儂もいよいよお迎えが近いのかと諦めていた矢先に、『あの魔女』が大公の前に現れた。
ある夜、寝室で眠りにつこうとしていた大公の元に音もなく現れた黒衣の美女。その人間離れした凍てつくような美しさに、彼は思わず息をのみそして畏怖した。冷たい滝のように足首まで流れ落ちる長い銀髪。白く小さな顔に芸術的なバランスで配置された目鼻立ち。赤い唇。すらりと背が高く、細い肢体に夜闇のような衣をまとっている。
「こんばんは。私は魔女ガンダルーシア」
名乗られる前からその威厳に圧倒されていた大公に、魔女の言葉を疑う気持ちはみじんも湧かなかった。その非現実的な美貌と神秘的なたたずまいはいっそ恐ろしいほどで、普通の人間であるはずもなかったからだ。事実、最初はとうとう死神が自分の元を訪れたのだと勘違いしていたほどだ。
「ま、魔女!? あの伝説の!?」
驚く大公に魔女が持ちかけたのは、目が覚めるような魅力的な取引だった。東のとある小国にすみやかに侵攻し、娘を殺せ。さすれば。
「そなたを不老不死にしてやろう」
リヒテル大公はなによりも死が恐ろしかった。いま手の内にある巨万の富も、栄誉も、そう遠くない未来にすべて失うと思うと悔しくて悔しくて仕方がない。自分の人生とは何だったのかと不毛な苦悩をし、やり残したことばかり思いついては後悔の念に沈みそうになる。だから魔女の言葉を聞いて、これぞ女神の天啓だと喜んで二つ返事で承諾した。
年齢的にもさすがに先陣に立つことはできなかったが、夜にまぎれて仕掛けさせた小国への侵略は難なく成功したと報告を受けた。しかし肝心の娘は寝室から姿を消していて、襲撃から一週間が経った今でも見つかっていない。
「小娘が……!」
こうしている間にも魔女の気が変わったらと思うと気が気ではなかった。大公がまたイライラと爪を噛みながらうめき声を上げていると、不意にドアがノックされる。返事をするより早く、派手な音と共にドアが開かれた。
「大公陛下! 僕です!」
「……スズリか。というか相変わらず声が大きくてうるさいんだよおまえは。ここは儂の執務室で儂しかおらん。そんな大声を出さずとも聞こえている」
リヒテル大公のネチネチした嫌味をまったく意に介した様子もなく、大股で部屋に入ってきたスズリと呼ばれた若者は大公の前に立つ。明るい茶色の髪に同じ色の大きな瞳、整った顔立ちながらまだどこか幼さの残る顔でくったくなく笑った。
「すみません大公陛下。そろそろお耳がお遠くあそばされる頃かと思いまして」
「なんだと!?」
「ほらそんなに怒ったらまた血圧が上がりますよう」
激昂する大公に、スズリは「どうどう」とまるで荒ぶる雄馬をなだめるような手つきで言い放った。どこまでも人を食った若造だとリヒテル大公は怒りを通り越して投げやりな気持ちになる。
国主に対して傲岸不遜を絵に描いたような態度をとるこの青年、スズリはリヒテル大公の姉の孫で大公の大甥にあたる十九歳。そして姉がこの不遜な孫を溺愛しているせいで、もともと女の方が気が強いこの家系において大公といえどもスズリを無下に扱うことはできないのだった。
「それで、何の用だスズリ」
「大叔父さんにいい知らせを持ってきたんですよ」
「なに?」
スズリの言葉に大公は用心深く反応した。この食えない大甥がまた何か妙なカマかけをしているんじゃないかと警戒したのだ。まったく信用がない。
「僕、侵攻には参加してないですけど、気になることがあったんで例の王宮に行ってさっき帰ってきたところなんです」
「それで?」
「地下通路に残ってた幻惑魔法の『におい』、魔法士の端くれとして僕なりに嗅ぎ分けて分析してみました」
「なんだと!? ……そうか!」
リヒテル大公は声を出して思わず椅子から立ち上がった。この生意気な大甥には一風変わった特技がある。犬のように魔法の匂いをかぎわけ、魔法に対して異様に鼻が効くという特技が。そのことを大公は今思い出したのだった。
「そ、それでどうだったんだ!」
「幻惑魔法を使ったのは男ですね。しかも相当手練れの魔法士です。しかも報告だと十人? もっとでしたっけ? あの場にいた兵士を全員速攻で昏倒させて、しかも後遺症はゼロだったとか。これができる人、普通にめっちゃすごいです。強いです。尊敬です」
「おまえの感想はいい。それより娘だ」
「その場にいた、ええと、王女でしたっけ? 自分で名乗って自害しようとしたっていう。オレ好きだなあそういうプライド高めのキマッてる子」
「だからおまえの感想はいい。それよりその娘の居場所を探せ。魔法が絡んでないと鼻が効かないなら、とりあえずその魔法士とやらをとっつかまえろ。追えるんだろうな?」
「追えます。ばっちり追えます」
「手練れだとか言っていたが、大丈夫なのか」
おまえの心配は一切していないが、おまえに何かあったら祖母である姉が大大大激怒するのは必至だ。そんな本音を隠して、リヒテル大公が内心冷や汗をかきながら言うとスズリはなんの頓着もなく無邪気ににっこり笑ってうなずいた。
「大丈夫ですよ。僕、天才なので」
◆
◆
「ミィ、見て! 木いちごがこんなにたくさん取れたわ!」
森の中にある木いちごの群生地から駆け戻ってきた私は、両手に持った大きな籐かごの中をミィに見せた。畑の脇で真っ白に洗い上がったシーツを干していたミィは、かごの中を覗き込んで顔をほころばせる。
「素晴らしい成果です、レディ」
「ふふ、ありがとう。ねえこれはどうするの?」
「洗って煮込んで木いちごのジャムにします」
それを聞いた私は、思わず目を輝かせて申し出た。
「ミィ、お願い私にも手伝わせて!」
「今戻られたばかりで、休まなくて大丈夫なのですか?」
「やることがない方がつらいわ。居候させてもらっているんだから私にももっと仕事をちょうだい」
「そういうことでしたら、ありがたくご助力いただきます。ですが決して無理はなさらぬよう」
「ええ。大丈夫よ」
私は王宮では、ルイーゼの特別な友人として同輩の貴族たちにはしこたま疎まれていた。ゆえに、幼いころから居場所を求めて厨房に駆け込むことがよくあった。そこでシェフたちにソースの味見をさせてもらったり、時には簡単な調理を手伝わせてもらったりもしていたから、まったく役に立たないということはないはずだ。
そして私が厨房でクロッカンを焼いただのパン種を仕込んだだのと話すたびに、ルイーゼは恨めしそうな顔で「ララサはいいなあ」「私が厨房に入ったりしたら間違いなくこっぴどく叱られるわ」「私だってララサと一緒にお料理がしたいのに」とぶつぶつ文句を言いながら、私が焼いたサブレを口いっぱいに頬張るのだ。
(ルイーゼ、大丈夫なのかしら。早く会いたい)
私がここに来てから早一週間、カイはまだルイーゼの居場所を教えてくれない。カイの「いずれ話す」という言葉を信じて大人しく待ってはいるけれど、ことあるごとにルイーゼのことを考えてしまう。あの時のサブレ、美味しかったからまた作ってとせがまれてルイーゼのために何度も何度も焼いたなあと私はまた懐かしく思い出した。
そんな郷愁に一瞬ひたってから、私は手元の籐かごの中をあらためて見た。渋柿色のかごの中で赤と黒の二色の小さな果実がつやつやとかわいらしく輝いている。卵を取るために放し飼いにしているという数羽の鶏が、私の足元をうろうろしながらかごの中をせわしなく気にしていた。
「でも、こんなに食べきれるの?」
かごいっぱいの木いちごはミィの指示で取ってきたものだけど、さすがに多すぎる気がする。首をかしげる私にミィは笑って言った。
「これはほとんど商品にします。作ったジャムを冷まして小ビンに詰めて街に持っていき、なじみの店に卸しているのです」
「売っているの? すごいわ」
「ええ。基本的に森で自給自足の生活ですが、衣類や香辛料や、あとカイ様の本なんかを買うためにはおカネが必要です。ワタクシのジャムは大変評判が良くて、いい値段で売れるのです」
得意げに胸を張ってヒゲをひくつかせる、そんなミィがほほえましくて私はうなずいた。
「そうでしょうね、あなたの作るものは本当になんでも美味しいもの。街の人たちがうらやましいわ」
「もちろん家で食べる分も残しておきますよ、レディ。午後はジャムに合わせてスコーンを焼きましょうね」
「スコーン? 嬉しい!」
ミィにいたずらっぽくウィンクされて私は思わず歓声を上げる。そんな私を見て器用な執事猫はにっこりと笑った。
「ところでカイの本といえば、あのカイの部屋はもうこれ以上入らないくらい本であふれているようだけど」
カイの私室。来たばかりの時に私が寝かされていたベッドと窓際の作業用らしきデスク、そしてぎりぎり残された足の踏み場。それらを除くすべてが本に埋め尽くされている部屋。あの惨状を思い出して言うと、ミィは困った顔になってヒゲを下げた。
「カイ様のお部屋は、ワタクシもお掃除に入らせてもらえないのです。床の本も棚の本もあれでカイ様なりに分類してあるそうですし、また触っただけでバラバラになってしまうような古い貴重な書物もたくさんあるとのことで、絶対に片付けるなと厳命されております」
「……それは困ったわね」
この家は、おそらくミィの献身によってどこもかしこもきれいに片づけられている。しかしそのカイの私室だけは例外中の例外のようだ。
「そういえばカイはいったい何の研究をしているの? 食事と畑の世話と湯浴みの時間以外はほとんど部屋にこもっているようだけど。やっぱり新しい魔法の開発とかかしら?」
「それはーー」
ミィは少し迷うそぶりを見せた。隠し事が苦手なのか、大きな瞳がきょろきょろと動いている。それを見た私はあわてて首を横に振った。
「ごめんなさい、立ち入ったことを聞いたわ。忘れて」
「いえいえ。いつかカイ様から直接お話があると良いのですが」
私が引き下がったことで、ミィはあからさまにホッとしたようだった。カイの研究にはどうやら何か秘密があるらしい。そしてこれはただの勘だけれど、その秘密はカイが王国を救うのをかたくなに拒否する理由につながっている気がした。こういう時の私の勘は良く当たるのだ。
「ああそうだ、申し訳ないのですがカイ様に朝食を持って行ってくださいませんか? ワタクシはまだ洗濯物が残っておりまして。食事の用意は厨房にしてございます」
「わかったわ。お洗濯ありがとう、ミィ」
「お言葉いたみいります、レディ」
◆
◆
「カイ、入るわよ」
朝食の載ったトレイを片腕で持って、私はカイの私室のドアをノックした。返事はなかったけれど構わず押し開けようとしたドアは、押しても押してもほんの少しの隙間以上開いてくれない。そしてそのわずかな隙間からは積み重なった本の表紙が見えている。案の定、扉の前まで押し寄せている本によってドアが封鎖されているようだ。
「入、る、わ、よ!」
ぐいぐいとドアを押し、私は体を横に平べったくしてトレイを傾けてなんとか部屋の中にすべりこむことができた。廊下から見て押し戸ではなく引き戸にしたらどうか、と一瞬考えたが、それをしたら最後、廊下からドアを引き開けた途端に本のなだれに襲われて廊下にまでほこりだらけの本がまき散らされるだろう。そんなことになったら綺麗好きのミィが卒倒するに違いない。
「カイ。ミィに頼まれて朝食を持ってきたわ」
カイの部屋に入るのは、ここに来た最初の日以来だった。デスクに向かっているカイの背中に声をかけたけれど返事はない。パンとゆで卵とコケモモのジュースが載ったトレイを持った私が、本の間からわずかに見える床を飛び石のように跳びながらデスクに近づくと、カイはデスクに頬杖をついてうたた寝をしているようだった。
(眠っていたのね)
返事がないわけだ。起こそうかどうしようか迷ったけれど、結局私はトレイをカイのデスクに置いてからまた飛び石のように床を跳んでカイのベッドまで行く。毛布を取って戻ってくると、ゆるく上下する肩に毛布をかけてやった。
「食事は置いておくわよ」
うとうとと舟をこいでいるカイに向かって、私は独り言のように言った。長いまつ毛を伏せて目を閉じている顔は本当によくできた彫像のようで、なんとなくまぶしくいけないものを見てしまった気がして私は視線をそらす。そのままデスクを離れようとしたとき、私はふとカイの手元にある紙を見てしまった。
(これは……)
青いインクで走り書きのように書かれているのは、すべて精緻な古代文字だった。今では話者はほとんどおらず、過去の文献の中にだけ残された古い古い文字。気になって思わず伸ばした手、それが急に強い力でつかまれたので私は心臓を大きく跳ねさせて息をのんだ。
「さわるな」
見ると、いつの間に目覚めたのかカイの大きな手が私の手首をつかんでいる。粗相を指摘されたようで、私は羞恥で頬がカッと熱くなった。
「ごめんなさい。つい」
「なんだララサか」
寝起きの反射的な行動だったのか、カイが私の顔を見て金色の瞳をまたたかせて一拍遅れて私の手首を解放した。黒髪に手を突っ込んでがしがしとかいて、小さなあくびを噛み殺している。怒ってはいないようで私はホッとして、とはいえ非礼には違いないのでもう一度「ごめんなさい」と謝った。カイは「別にいい」と首を横に振って、それからふと気づいたように手元の紙を素早く裏に伏せる。
「……読んだか?」
「い、いえ。それは古代文字かしら? 私に読めるはずがないもの」
「そうか」
どこか安心したように息をついて、カイがデスクの上のトレイを見た。
「食事のことをすっかり忘れていた。ありがとう」
「もしかして昨夜は寝ていないの?」
「……寝た。一時間くらい」
「それは寝たとは言わない」
腰に手を当ててあきれていると、カイは「このあと少し寝るから」と言い訳するように言った。それから私がさっきかけた肩の毛布に気づいて「ありがとう」とつぶやく。
「どういたしまして。あ、ミィが午後はスコーンを焼くって言ってたわよ」
「分かった。悪いがその頃に起こしに来てくれ」
私はうなずいて、また飛び石のように本の間をぴょんぴょんと跳ねてドアに戻る。ドアの前に積まれている本の山を、崩さないように気をつけながらそろそろと動かしてドアが開くだけの半円を確保した。そして廊下に出て閉めたドアに背をつけて息をつく。
(びっくりした……)
カイに握られた手首がまだ少し熱を持っている気がした。とっさのことで力の加減ができなかったのだろう、手首を握るカイの力は思いのほか強くて、私には振り払うことができなかった。執事猫のミィがいることであまり意識していなかったけれど、男性とひとつ屋根の下に暮らしているんだと私は一週間ごしに今さら自覚して勝手に頬が熱くなった。それにもうひとつ気になることがある。
(カイが書いていた文字。あれは)
とっさに嘘をついてしまったけれど、私は実は古代文字が読める。昔、ルイーゼの王女教育につきあって基礎を学んだことがあったのだ。読み違いでなければカイはこう書いていた。
『不老不死の人間が死ぬ方法は』
あれは不老不死の魔女とその秘術に関係していることなんだろうか。あんなに部屋いっぱいの本を集めて、カイはいったい何を研究しているんだろう。
「……今度、ちゃんと聞いてみよう」
私は自分の頬を両手ではさんでぱちんとたたいた。それから気を取り直して、厨房でミィの手伝いをするために廊下を歩きだした。
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