第01話 ララサとルイーゼ
夜の闇の中、王宮が炎に沈んでいく。
肌を焼く熱風と地下通路に響く敵兵たちの怒号。それらから必死に逃れて走って走って、ついに追い詰められたこの小部屋が私、没落した伯爵令嬢ララサ・ゲインブールの『死に場所』だった。
この世に別れを告げる覚悟を決めた今、まぶたの裏に浮かぶのは幼少の頃に死に別れて肖像画でしか知らない父と母の優しいほほ笑み。そして。
(ララサ!)
(ルイーゼ!)
何度となく名前を呼び合い、手をつないで王宮の美しい庭園を駆けまわり、双子の姉妹のように育った大好きな親友の悲痛な泣き顔だった。
(ララサ! 嫌よ私も一緒にーー)
だめよルイーゼ、約束したでしょう。私があなたを守るって。
私はあなたの身代わりとなってここで死ぬ。
石造りの小部屋に取り付けられた木製の扉。逃げ込んだ時に少しでも時間稼ぎになればと掛けた蝶番が音を立てて破壊された。たいまつを持った幾人もの兵士たちが、抜き身の剣を手に部屋の中になだれこんでくる。松やにの焼ける焦げ臭いにおいが鼻をついた。
「女だ。女がいるぞ」
「王女か?」
「金髪に緑の目。特徴は一致していますがーー」
値踏みするような目でこちらを見ながら声高にわめく男たちに向かって、私は大きく息を吸い込んだ。そして震えるこぶしを握り締めてこう宣言する。
「いかにも。私はこの国の王女、ルイーゼ・ラ・ヴィッテルン。命乞いはしないわ。さあ私を殺しなさいーー!」
◆
ルイーゼはこの国の王女だ。いずれ父王様の跡をつぎ女王となる高い身分でありながら、一介の没落貴族の娘である私のことを親友と呼び、いつもそばにいてくれた。
「ララサはいいなあ」
あれはお互い十歳になったばかりの年の頃。バラの咲き乱れる王宮の美しい庭園で、いつものようにふたりで散歩をしていた時のことだった。
「私が? どうして?」
父と母を馬車の事故で亡くし、これといって有力な後ろ盾もなく、ただ一人生き残った幼い私を当主と呼ばざるをえなかった私の家はまさに『没落貴族』の名がふさわしかった。そしてそんな私が王女であるルイーゼの個人的な親友に選ばれて王宮の一室で暮らす栄誉を得たことで、他の貴族たちから聞こえよがしの嫌味や悪口を言われるのももはや日常茶飯事だ。
でも私と、そしてルイーゼにとってもそんなことはどうでもよかった。私たちはお互いを思いあう、かけがえのない親友同士なのだから。
「だってララサ、このまえ馬で湖に遠乗りに行ったと言っていたじゃない」
「言ったけど。あれはお世話になっている侍女のみんなのために果物をとりに行っただけよ」
「一人ででしょう?」
「もちろん。私には護衛してくれる騎士なんていないもの」
「それがうらやましいのよ」
そう言ってルイーゼは大げさなため息をついた。もし教育係に見られたら「はしたない」と目を吊り上げて叱られただろう気安い仕草だ。
「一人で自由に遠乗りだなんて、夢みたい。王女なんてきゅうくつなだけだわ」
可憐で美しい容姿に似合わずおてんばな性格のルイーゼは、また大きなため息をつく。未来の女王陛下としてどこに行くにも侍女だの執事だの騎士だのをぞろぞろと引き連れていかなければならない生活は、活発なルイーゼにとって時に息が詰まるのだろう。そしてそうせざるをえない周囲の心配も、自分の身分も、痛いほどわきまえたうえで私一人にだけ漏らしてくれるルイーゼの本音を聞くのが私は好きだった。
「でも、あなたが王女様でいてくれるから、私はこんな素敵なバラを見ることができる」
あなたと一緒に。朝露に濡れて輝く深紅のバラを指先で愛でながら私がそう言うと、ルイーゼは三度目の派手なため息をついた。それからきゃしゃな両手を広げて私の背中にぎゅっと抱き着いてくる。
「ララサ。私たち親友だよね」
「どうしたの急に」
同い年なのに妹のように甘えてくる仕草が可笑しくて、私は回された腕を振りほどかないように気をつけながらそっと体の向きを変える。ルイーゼの長い蜂蜜色の金髪が風に揺れて、大輪のバラに劣らぬ高級な香水がほのかに香った。
「当たり前でしょ。なにがあっても私はあなたの親友。あなたの味方」
「私が『王女』だから?」
どこか不安そうな表情で大きな翠緑の瞳を揺らすルイーゼ。そのまばゆい金糸のような髪を私は指先で優しく梳いて安心させるように笑う。
「違う。私があなたのことを大好きだからよ」
「ありがとう。私も大好き。大切なララサ」
「なにがあっても、私はあなたの味方でいるしあなたを守るからね」
それを聞いたルイーゼは、傾国と評されるほどに愛らしく美しい顔をほころばせて本当に嬉しそうに笑った。
「さしずめ『バラ園の誓い』ね」
「もちろんよ」
そう、なにがあっても私はあなたの味方。私はあなたを守る。
十歳の時分に、咲き誇る無数のバラたちに見守られながら交わした幼い約束。それを今、私は命をかけて果たそうとしていた。
◆
異変を感じたのは、昨夜のことだった。
昨日は私の十八歳の誕生日で、かねてからの約束通りルイーゼの私室でささやかなプライベートパーティが開かれた。私の好物をふんだんに集めたごちそうがふるまわれ、恐れ多くも公務の合間をぬって訪れた国王陛下と王妃殿下にまでお祝いの言葉をたまわり、ルイーゼに懇願された私はそのまま自室に帰らず泊まることになった。
そしてその夜、巨大な天蓋つきのベッドで私はルイーゼと一緒に眠っていた。王女の寝室は広く、豪奢なベッドも人間が五人は並んで眠れそうなほどに大きい。だからお泊まりをした日は、私たちはどちらかが眠くなるまで同じベッドの中で向き合って楽しい内緒話をするのが恒例だった。
草木も眠る夜更けのこと。私は奇妙な胸騒ぎと、それから遠くから聞こえるかすかな異音に気づいて目を覚ます。隣を見るとぐっすりと眠っているルイーゼの天使のような寝顔があって少し安心したけれど、不安をぬぐいきれずに私は裸足のままそっとベッドを降りて寝室の扉を押し開けた。
「誰か」
ルイーゼの寝室の隣の間には必ず不寝番がついている。それは国王様が一人娘を溺愛している証拠でもあり、また昨今どうも国内外の情勢が不穏さを増していることも理由だった。だから昨夜も「おやすみ」「おやすみなさい」と顔なじみの侍女とあいさつを交わしてから寝室に入ったはずなのに。
隣室には誰もいなかった。ろうそくの火が頼りなくゆらゆらと揺れているだけで、どこにも人の気配がない。
「誰もいないの?」
薄い夜着姿で少し恥ずかしかったけれど、仕方なく私は燭台をひとつ手に持つと重い扉を押し開けて廊下に出た。すると今度ははっきりと耳に届いた―—かすかな剣戟の音と怒鳴り声、そして悲鳴。
「いけない!」
私はとっさに身をひるがえして寝室に立ち戻った。走ってベッドに取り付き、眠るルイーゼの肩をたたく。
「ルイーゼ! お願い起きて! ルイーゼ!」
「……ララサ? どうしたの一体」
ねぼけまなこをこすりながら言葉を返すルイーゼの耳元で、私は悲壮な声で怒鳴った。
「逃げるのよ!」
◆
それからの数時間は、まるで悪夢そのものだった。
ふたり夜着姿のまま、火の手に追われるようにして王宮の中を逃げ惑った。途中、自国のものではない見慣れぬ甲冑の兵士の姿を見ては急いで物陰に身を隠す。そして体を寄せ合いながら息を殺して通り過ぎるのを待っていたときに聞こえた話し声から、ルイーゼの両親である国王様と王妃様が討ち取られたことを知った。
「残るは娘だ」「寝室はもぬけのカラだったそうだぞ」「殺して首を取れば報奨金が出るに違いないぜ」そんな野卑な言葉が聞こえてきて、真っ青になって気を失いそうになるルイーゼを叱咤しながら私は彼女の手を引いて走り地下通路を目指した。王宮の地下にある『あの小部屋』までたどりつけばなんとかなる。私は偶然、そのことを知っていた。
「ルイーゼ様! ご無事でしたか!」
無力な子ネズミのように追手を避けて、広い王宮を逃げ続けてきた私たちにとって幸運だったのは、地下通路の手前で兵団長に会えたことだった。無口な中年の兵団長は、身分に恵まれず出世こそできなかったものの、その剣の実力と忠誠心は国王陛下も認めるところだったと聞いている。そしていかめしい顔つきに似合わぬ子ども好きで、幼いころからルイーゼはもちろん没落貴族の娘である私にも分けへだてなく優しかった。
「兵団長!」
「ララサ様。ルイーゼ様をよくぞここまでお連れくださいました。さぞや恐ろしかったことでしょう。僭越ながらお礼申し上げます」
「堅苦しい挨拶は抜きよ。早くあの小部屋へ」
「やはりご存知だったのですね」
兵団長はうなずき、「さあ早く」とうながして地下通路へと続く下り階段を先頭に立って駆け降りていった。間にルイーゼを挟んで私も後に続いていく。冷えた石段を裸足で踏みしめながら、私はその時にはもう、ルイーゼとのあの日の約束をーー『バラ園の誓い』をーー果たす時が来たのだと覚悟を決めていた。
◆
その小部屋は、下水道を兼ねた狭い地下通路の中ほどにあった。一見なんの変哲もない、打ち捨てられた牢獄のような寒々しい部屋だ。しかし決められた手順で壁の石を押すことで、郊外の森へと続く脱出路につながる隠し扉が開かれる。兵団長は私たちふたりに手元を見つめられながら迷いなく石を押し、無事に隠し扉を出現させた。
「私が先に入ります。ルイーゼ様、ララサ様、私の後に続いてください」
「兵団長」
すでに長身をかがめて通路をくぐりかけていた兵団長は、私の発した声に振り向いた。青ざめた表情のまま無言で後に続こうとしていたルイーゼも、立ち止まって顔を向ける。
「ララサ様。追手が来ます。さあ早く」
「追手はーー来てもらわねば困ります」
「なん……だと?」
燭台の頼りない灯りの中で、私の言葉に兵団長が血相を変えるのが分かった。
「貴様、まさかルイーゼ様を裏切りーー」
「待って! ララサがそんなことをするはずがないわ」
突発的な怒りをあらわにする兵団長に、ルイーゼがすかさず声を上げて私をかばう。それを見た私はこんな時だというのに嬉しかった。兵団長、あなたはやはり信頼に足る人だわ。そしてルイーゼ、私を信じてくれてありがとう。
大好きよ。私の大切な親友。
「私はここに残ります。ふたりは早く逃げて」
「……まさか」
聡明な兵団長はその一言ですべてを理解したようだった。私はほほえみながらうなずいて見せる。
「私もルイーゼも同じ蜂蜜色の髪に緑の瞳。年も同じだし背格好もよく似ている。ねえ覚えてる? 私がルイーゼのベッドで壁を向いて寝たふりをしている間に、ルイーゼが王宮の外に遊びに出たことがあったわね。ルイーゼが戻ってくるまで誰も入れ替わりに気づかなかった。……あとであなたに二人並んでこっぴどく叱られたけれど」
「……覚えております。覚えておりますとも」
兵団長が小さく鼻をすする音が聞こえた。その空気を打破するように、ルイーゼが長い髪を振り乱して怒りの声を上げる。
「馬鹿を言わないで。ララサが残るなら私も残る。私の身代わりにララサが死ぬなんて許さなーー」
「姫、お許しを」
石の小部屋に柔らかく鈍い音が響いた。兵団長がルイーゼの溝落ちを打って気絶させたのだ。
「ララサ……嫌よ私も一緒にーー」
ルイーゼの悲痛な声がそこで途切れた。気を失って崩れ落ちるルイーゼの体を、膝をついて丁重に抱き上げた兵団長が立ち上がる。日に焼けた頬は涙に濡れていて、代われるものなら代わってやりたい、そう心から思ってくれていることが痛いほど伝わってきた。
だけどこれは、私にしかできないこと。
「ララサ様。あなたの勇敢さに敬意を表します」
「ありがとう。私のお墓にはいつかあふれるほどのバラを植えてちょうだいとルイーゼに伝えて」
震える声をなんとか奮い立たせて告げた言葉に、堅物の兵団長は頬に涙の筋を作りながら深く頷いた。
「はい。必ず」
「さあ行って。この通路の入口は私がふさぐから」
それが最後の会話だった。忠実なる兵団長は白い夜着に包まれたルイーゼを両手に抱いて暗闇の中を振り返ることなく走っていった。硬い足音が遠ざかりやがて消える。私はカビ臭くこもった地下の空気をそれでも思い切り吸い込んで深呼吸をしてから、壁の石を手順通りに押して通路を元通りに戻した。隠し扉は壁に溶けるようにして消えて、一度目を離せばどこにあったのかまるで分からなくなる。知らぬ者には見つけようがないし、なにより目的の『王女』がここにいるのだから、敵が血眼になってこの小部屋を捜索することもないだろう。
そう、『王女ルイーゼ』は必ずここで死ななければならない。もし王家最後の生き残りが王宮を脱出したことが知られればどこまでも追手がかかり、そしていずれは捕まってしまうだろう。けれど私が、身代わりの王女がここで確実に死ねば、もはやルイーゼに追手がかかることはないはずだ。
「さあ。しっかり死ななくちゃ……!」
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