9 ◇回想◇ 失敗必至の逃避行(3)
全12話+後談1話執筆済。基本毎日投稿予定です。
〈注意書き〉
過激ではありませんがR15相当の描写があります。暴力的要素等が苦手な方はご注意ください。
パルクローム領を離れてからは、何もかもが初めてで、緊張して、怖くて──でもそれ以上に、何もかもが新鮮だった。
私たちは牧場の管理小屋からできる限りの食糧を持って行った。最初はそれを分けて食べて凌ぎながら、一気に山を二つ越えた。
私は初めのうちは、トカゲやリスやウサギ、気持ち悪い形の虫なんかにもいちいち悲鳴を上げていた。
ベインは最初は私が声を上げるたびに何事かと驚いて、それがただの虫だと分かると安心して笑ってくれていた。
けれどそのうち毎回トカゲやら虫やらにいちいち反応を示すのが面倒になったのか、ベインの返事はどんどん適当になっていって、最終的に私の小さな悲鳴は無視されるか「はい。」で流されるようになった。
途中で何回か、狼と小型の魔物にも遭遇した。
私は何も出来ずに固まってしまっていたけど、ベインが何とかしてくれた。まあ、あんな大型飛竜の親子を倒せてしまうくらいだから、ベインにとっては何でもなかったのかもしれないけど。
でも、私だけだったら絶対に死んでいた。だから本当に助かった。
夜の山の中で魔物を呼び寄せる火なんて起こしていられない。日が完全に落ちると、お互いの顔どころか手元も何も見えないくらいの真っ暗闇になった。
私は怖かったから許可を得て、ベインの服の裾を掴んで寝た。
◇◇◇◇◇◇
そういう危険や怖さはもちろんあったけど、不思議と山を抜ける間はずっと、弱気にならずにいられた。
私が駆け落ちを始めてから一番最初に怯えて躊躇ってしまったのは、町に出ることだった。
父に「ユキアを探せ!」と指示された屋敷の使用人たちが、その町にいたらどうしよう。
駆け落ちということにしたけど、やっぱり捜索願いが受理されていたら……それで警察に声を掛けられたらどうしよう。
そうでなくとも、単に不審な二人組だと地元民に怪しまれたら──……
私は慎重になって、町に降りる前に不安な要素を挙げて、一つ一つ確認していた。
そして何を警戒すべきか、どんな格好で行くか、どんな挙動をすればいいか……とにかくいろいろ考えた。
私は慎重な性格だった。
でもベインは楽観的な性格だった。
私の挙げる懸念点や不安要素に、全部「大丈夫じゃね?」「さすがにここにはまだ来てないっしょ。」「堂々としてればいいじゃん。顔隠す方が逆に怪しいって。」と返してきた。
それで……それでも私が「けどやっぱり、大丈夫かな?……父が来ていたらどうしよう。」と言っていたら、ベインがボソッと
「うっざ。」
と呟いた。
「…………ねえ。今『うざい』って言った?」
私は彼の口から聞こえてきたその言葉に、カチンときた。
失敗するわけにはいかないからこそ、こうしていろいろ想定しているのに。考えて損はないのに。
──私が父に怯えている気持ちを、少しくらい理解してくれたっていいじゃない。
心配なんだから、不安なんだから……っ、こんなに怖いんだから──!ちょっとは寄り添ってくれたっていいじゃない!
あれが私とベインの初喧嘩だった。
私がどれだけの思いで逃げているのかを理解してくれていないベインの冷たさに、私はショックを受けて怒った。
せっかく私の心配に付き合って親身になってあげたのに、一向に自分の「大丈夫だ」を聞き入れずに「でも、でも……」と繰り返す私にベインはキレた。
結局お互いに言い合いになって、どっちも折れずに平行線になって、ベインが私を置いてさっさと町に出ようとして私が怒鳴って引き止めてベインがキレて──それを繰り返して、その日、野宿がもう一日延長になった。
険悪な空気のまま無言で二人で携帯食を食べて、無言でベインはさっさと寝た。
ベインも私も、喧嘩の仕方なんて知らなかった。
だから当然、仲直りの仕方なんて知らなかった。
……あのときは最終的に、どうやって仲直りできたのか。
夜になって真っ暗になって、それでもお互いに譲らずに無言でいたけど──結局、私が暗闇が怖くって、ベインの服の裾を掴んだのがきっかけだった。
暗すぎて顔は見えなかったけど、私に服を掴まれたベインが不機嫌そうな声で「……何。」って言ってきたから、私は服を掴んだまま不機嫌な声で「……何よ。」って言い返した。
……そうしたらベインが「何って……何それ級長。」って言ってきたんだった。
喧嘩の間ベインがほとんど言わなくなっていた「級長」の単語が出てきたのが、喧嘩の終わりの合図になった気がする。
ベインは「も〜勝手にすれば〜?」って言って寝て、私はその声があんまり怒っていないように聞こえたから、顔は見えなかったけど安心して寝られた。
それで翌朝、日が昇ってお互いの顔が見えるようになって、私が先に起きてその後でベインが起きて──……寝起きの悪いベインがぼーっとしたまま「……どうすんの。」って聞いてきて、私が「……行く。」って言って、それで町に出たんだった。
町に出てみたら、拍子抜けするくらい大丈夫だった。
私はビクビクしていたけど、道を歩いてみたらすれ違う人は全然私たちを気にしなかったし、店に入ってみたら普通に買い物ができた。
宿屋に行ったら、あっさり部屋を借りることができた。私は自分の名前を書くのが怖かったから、何となく、程よくありふれた偽名を書いた。
数日振り……5日振りくらいの屋根の下だった。
宿屋の部屋に入ってから、ベインに「ほら大丈夫だったじゃん。級長は考え過ぎだって。」と言われたけど、私はそこで喧嘩を再開する気にもなれなかった。でも譲りたくもなかったから「いいの!そういう性格なんだから。私は慎重なの。それが大事なときもあるの!」とだけ言い返して、それから「宿屋だ〜!疲れたぁ〜!私もう駄目だわ〜!」って言いながら靴を脱いでソファーに倒れ込んだ。
ベインは私を見て呆れ笑いをして、それで私と同じように靴を脱いで脱力していた。
逃避行5日目。どっちも「ごめん」を言わずに終えた初喧嘩。
そして辿り着いた初めての宿屋。
私はあのとき、ベインとなら上手く《駆け落ち》ができるって、何となく確信した。
◇◇◇◇◇◇
逃避行を始めてからしばらくは、数日間野宿しながら移動をして距離を稼いで、それから宿屋というのを繰り返した。
もしどこかで一度私たちを探している人間に目撃されていたとしても、そこからまた足取りを辿れなくなるように。
ベインは野宿しながらの移動中に魔物を狩って素材を集めて、冒険者ギルドで換金したりするようになった。
想定通りのお金の稼ぎ方とはいえ、私は役に立てている気がしなくて、ベインに申し訳なかった。
私がそう言って謝ると、ベインは
「いや。『いざとなれば治癒魔法ある』ってだけで全然違うから。いるだけでマジで役に立ってるよ級長。」
と言ってくれた。
だから私は代わりに、ベインが稼いでくれたお金の管理や、野宿期間に向けての非常食の買い出し、ベインの荷物も含めた持ち物全般の管理を担当するようにした。
徐々に道なき道を行くのが早くなって、野宿する場所の見つけ方が上手くなって、徐々にお互いの性格を把握して……私たちは二人での逃避行に慣れていった。
お互いに得意なことは任せ合って、お互いに苦手なことは押し付け合って、そうしてたまに喧嘩をした。
喧嘩を通して理解が深まったり、逆にますます理解に苦しんだりもした。
時間だけはたくさん余っていたから、私たちはいろんな話もした。
ベインが大槌を異様に使いこなせている理由も聞いた。
あれはもともと牧場にあった装備品で、ベインは飛竜が来る前から牧場の家畜を狙ってくる熊や狼、小型中型の魔物を倒すくらいのことは余裕でこなしていたらしい。
「……ベインが普段そんなことをしていたなんて。全然知らなかったわ。クラスメイトなのに。」
私がそう言ったら、ベインは
「俺なんて今、完全に別人といる気分だけど。」
と言ってきた。
「そういえば級長って、いつ聖女の能力が覚醒したん?」
ひたすら二人だけの日々。自首するまでの期間限定の《駆け落ち》。
今さら隠したって仕方がないから、私はベインに聖女の能力のことを聞かれたときも、普通にすべてを話した。
「お義姉様が死んだとき。」
「ん?ごめん。……何て?」
「お義姉様が死んだときよ。」
「その『お義姉様』って、級長がこの前話してた父親の再婚相手の家族のことっしょ?」
「そう。」
「死んだの?」
「そう。でも私が蘇生したの。だから生きているわよ。」
ベインは変顔を何種類かした後、一周回って「うわっ……聖女。」とだけ言った。
「……あの日は父がいつも以上に機嫌が悪くて、私はいつも以上に殴られていたの。
あまりにも酷すぎて、使用人たちも父の目に入らないように全員どこかへいってしまっていたわ。誰も助けてなんてくれなかった。
私はもう痛いのを通り越して気絶しそうになっていたんだけど……意識が飛びそうになって全身の力が抜けかけたときに、声がしたの。
『もうそれ以上は──!』
っていう、お義姉様の声と──その後の悲鳴が。
それから父は何かスッキリしたらしくて、私のもとを去っていった。
私は嫌な予感がして、朦朧としながら自分に回復魔法を掛けて、何とか立ち上がってお義姉様のところに行こうと周りを見渡したの。
……でも見当たらなかった。
だから私は慌ててお義姉様を探して駆けて……すぐに気付いたの。
──階段の下で倒れている、お義姉様に。」
「……オチ読めたわ。」
「怪談話じゃないのよ。」
私はベインに文句を言った。
「それで、私は『お義姉様!』って叫んで階段を駆け降りてお義姉様のところへ行ったんだけど……打ちどころが悪かったのか、お義姉様は息をしていなかったの。心臓の音も確認したけど、もう動いていなかった。
でもまるで生きているみたいに見た目は綺麗だったから、私は『まだ間に合う!』って思って、必死に回復魔法を掛け続けたの。
どのくらい掛けたか分からない。よく分からないけどとにかく回復魔法を頭から首にかけて、打ってしまったであろうところに掛け続けた。
そうしたら手応えが変わった感覚があって、直後にお義姉様が微かに息をする気配がしたの。
それで心臓も動き出したのよ。……それが最初。」
ベインは「ふーん。……治癒魔法ってそうやって覚醒すんだね。回復魔法の延長上にあるんだ。」と言ってから、ぬるっと首を傾げて疑問を口にした。
「…………で、何で聖女の能力覚醒を黙ってんの?級長。
父親嫌いならさ。すぐに言っちゃえば良かったじゃん。警察行って。
『聖女の能力覚醒しました。父親が義姉殺したときに覚醒したんです。』っつって。
そこで能力の確認が取れたら、父親逮捕されて終わりじゃん。《聖女保護法》違反にもならないし。
級長が今こんなことする必要もなかったんじゃね?」
ベインの疑問は至極真っ当だった。
でも、私にはちゃんとした理由があった。
「言えなかったのよ。
だって……それを言って父が逮捕されたら、お義姉様たちが『人殺しの家族』になってしまうじゃない。」
「どゆこと?」
私は当時考えていたことを説明した。
「あのね、ベイン。
お義姉様にはね、両想いの彼氏様がいたの。その当時から。
それにお義兄様は、父のことを躱しながら、自分の家族と義妹の私を守る力をつけようと頑張ってくれていた。お義母様だって、必死になって父の機嫌をコントロールして少しでも私に八つ当たりが向かないようにしてくれたの。
……それで、もし父が逮捕されたら……うちは『殺人犯の子爵の一家』ということになって、再婚家族のあの三人まで巻き添えにしてしまう──って思ったの。
そんな評判がついてしまったら、お義姉様と彼氏様の結婚はなくなってしまう。
お義兄様も、社交界で白い目で見られる。もし家を出て就職するとなっても、そんな父がいたら内定なんて取り消されてしまうかもしれない。
ただでさえ再婚を後悔していたお義母様だって、そんな男に子どもを引き連れて再び嫁いだ女だということになったら……もう外を歩けなくなってしまう。
だから、言いたくなかったの。
あの三人が家を出て、お義姉様が結婚して、お義兄様が社会に出て周りからの信用を得て、お義母様がちゃんとまた離婚できてから。それから父を『告発』しようと思ったの。
私はお義姉様を一度でも殺した父を絶対に許さない。今はまだ我慢して見逃しているけど……必ず償わせるつもり。」
「それで級長は《聖女隠蔽罪》で懲役10年になっちゃうのに?」
「そう。別にいいの。私のことはどうでも。
それであの三人が守れるなら、その程度のことは受け入れる。……自己満足だとしても構わないの。」
私はそう言った。
本気だった。紛うことなき本心だった。
……私は、あの三人に救われてきたから。
父と二人でずっと地獄だった日々。でもあの三人が子爵家に来てから、私は「人間」になれた。
私を気にかけてくれている視線をずっと感じていた。
父の目を盗んで私に声を掛けたり、食事をこっそり取っておいてくれたりした。
私のことを思って、泣いてくれた。庇ってくれた。
……そんな優しい三人を、この地獄の子爵家に引き入れてしまった。
再婚前の顔合わせのとき、私は父の本性を教えなかった。……私は、父に騙されていたこの三人を見殺しにしたようなものだった。
…………一度でも、そんな優し過ぎるお義姉様を死なせてしまった。
救われていた「感謝」の気持ち以上に、「贖罪」の気持ちの方が大きかった。
一度でもあの三人の幸せを奪った父と私。
その幸せを再び見届けるためならば、自分の懲役10年くらいは必要な犠牲だと思っていた。妥当だと思っていた。
「じゃあ、級長は自首したらそんときに父親を告発すんの?」
ベインがそう尋ねてきたから、私は首を振った。
「ううん。私は服役中の10年間は黙っているつもり。最後に出所するときに告発するの。」
「何で???」
ベインは疑問符を大量に浮かべていた。
「ベインには少しだけ話したことあったわよね。
リサお義姉様は繊細なのよ。私にいつも泣いて謝ってくるの。『ユキアを助けてあげられなくてごめんなさい。……私は弱いわ。』って。自分をすぐに責める癖があるの。
お義姉様は優し過ぎる人なの。父が目に見えて危険な状態なのに、私を庇おうとしてしまうくらい。」
私はお義姉様の姿を思い浮かべながら、想像したくない未来を口にした。
「……だから、もし私が今《聖女隠蔽罪》で逮捕されて、その最初の能力利用が『自分を生き返らせた』ときだった──ってお義姉様が知ったら……それで私が懲役10年になったら……お義姉様は絶対にこう思うはず。
──『ユキアは私のせいで懲役10年になったんだ』って。
そうなったら、繊細で優し過ぎるお姉様なら、きっと勝手に自分を責めて、罪の意識に苛まれ続けてしまうわ。
自分が幸せになる資格なんてない──って、両想いの彼と結婚しているのに離婚を考えだすかもしれない。
考えたくないけど……私が生きていたらユキアが苦しむ──って、自死を考えてしまうかもしれないわ。
私が懲役10年の刑に服している間に、お義姉様は一人で自分を追い詰めてしまう。でも私はそんなことをしたいんじゃないの。
だから、お義姉様にはバレたくない。私が出所して、お義姉様に直接『大丈夫です。お義姉様のせいではありません。』って言えるようになってから、父のことは告発したいの。」
「……その義姉様は羊みたいな人ってことね。それは心配だわ。」
お義姉様と羊を一緒にして納得するベイン。
私としては違和感しかなかったけど、ベインが羊を大切にしていたことは知っているから、そこは黙って聞き流した。
「要するに級長は、
『聖女の能力を使って義理の姉を生き返らせた』けど『義理の家族のために、そんときは父親の殺人罪を隠した』。『だから聖女の能力も言えなかった』。
で、これからの計画は
『自分が勘当されるまで父親と資産家ジジイから逃げ切りたい』。それが叶ったら『自首して、父親の殺人罪を告発したい』。
けど『義理の姉が罪悪感を感じて死んだりしないように、殺人罪を告発すんのは懲役10年の刑が終わってから』
──ってこと?」
「そうよ。」
私が頷くと、ベインは私にこう言ってきた。
「級長、欲張りだね。」
「大好きなお義姉様たちを守って、人殺しの父を告発したいだけよ。何が欲張りなのよ。」
私がそう言い返すと、ベインは驚いたように目を見開いた。
今なら分かる。
…………多分ベインも、私と同じだった。
あのとき私が「大好き」って言葉を口にしたから……それが意外で驚いていたんだろう。
「……ベインだってそうでしょ。
貴方だって、大好きな牛と羊とヤギを守りたかっただけじゃない。その子たちを見捨てた父親のことは許せないでしょう?……それと同じよ。」
私がそう言い返すと、ベインは完全に納得したように「たしかにね。それと同じか。」と言って頷いていた。
「じゃあ、俺も逮捕されるときに親父が故意の通報義務違反してたことを『告発』しとくかな。
級長の父親とは罪の重さは違うけど。……アイツらを見殺しにした親父も、俺にとっては殺人罪と同じだから。」
ベインは最後にそう言った。
そうして、私たちの逮捕後の目標は完全に定まった。
……私たちは、気付けなかった。分からなかった。
大切な守りたいものと、自分の犯罪の懲役刑が釣り合うかどうかだけを考えていた。
自分たちの《聖女保護法》違反の罪が、割に合うかどうかしか考えていなかった。
父親の罪が許せないという思いだけが、強かった。
ベインも私も、自分のための生き方なんて知らなかった。
だから当然、自分のために生きる人生を想定していなかった。
そして初喧嘩のときと違って、ベインも私も、そのときは何の疑問も持たずに話を終えた。
──……人生に幸せを感じて、自分の本当の望みが分かったとき。
この懲役30年と懲役10年がどういう意味を持ってしまうのか。
私にはまだ、想像がつかなかった。
◇◇◇◇◇◇
「まだ絶縁手続きはされていないみたい。
…………なかなか父に『勘当』されない。」
私は定期的に滞在中の街の役場に行って、自分の戸籍を取り寄せて状況を確認していた。
その役場に行くのが、毎回すごく怖かった。
役場の人が簡単に他人に情報を流すわけはないと分かっていても不安だった。この役場の人がパルクローム領の役場に戸籍の確認の通話をして、そのパルクローム領の役場の人が「この街から問い合わせがありました」って父に情報を漏らしたら──……
それだけじゃなかった。今、この役場に入ったら目の前の掲示板に私の捜索願いのポスターが貼られていて、それで「アイツだ!」って捕まってしまったら──……
そう思うと足が竦んだ。
ベインは「戸籍取り寄せるだけなら大丈夫だって。それで足が付くわけないじゃん。」「さすがにたかが駆け落ちをした人間の捜索願いなんて、こんなとこまで来ないって。級長が聖女だってことはまだ誰にも言ってないんだから。」と言ってきた。
最初の数ヶ月くらいは、それで行った先の役場でベインと結局喧嘩になったりもした。あの初めて町に出たときのように。
でも毎回そこで喧嘩と仲直りを繰り返すのも疲れるし不毛だから、私は折れて途中から不安でも口に出さずにさっさと役場に行くようになった。
ただ、やっぱり不安で怖いものは怖かった。
だから役場に行くときも、無言でベインの服の裾を掴むようになった。そうすると安心できた。
……それで意外と大丈夫だということに気が付いたから。私は毎回そうするようになった。
ベインが強かったから。
いざとなってもベインが私を引っ張って街の外に逃げてくれて、それでまた野宿をすれば、追われてもすぐに撒くことができるから。
私の安心の理由は、そういうことだと思っていた。
そうして逃避行を続けて半年以上が経っていたのに、私は父に勘当されていなかった。
私はまだ子爵家の籍に入ったまま。父の娘のまま。……【ユキア・エンシーラ】のままだった。
「父は私のこと、まだ探しているのかしら。
……まだ連れ戻して、あの資産家ジジイのもとに売れるって、そう思っているのかな。
私の計画……上手くいかなかったらどうしよう。一生絶縁手続きされなかったら……」
二人で旅をし始めて半年。意外とあっさりと過ぎてきてしまったこの日々が、本当に楽しかったから。
子爵家にいた頃のあの恐怖の日々とは全然違った。本当に、生まれ変わったようだった。まったく別の人生を歩んでいる気になれていたから。
だから私は戸籍を見て、まだ自分と父が家族であることを実感して……あの日々に戻ってしまう自分を想像して、激しく気落ちして……そして恐怖に震えてしまっていた。
「ん〜……そしたら今日も晩飯、あの酒場行かね?
あそこ飯も酒も美味かったし。もう一回行きたい。」
「…………は?」
私は、私の不安に微塵も寄り添わずに、用が済んだとばかりに夕飯のことを考え始めていた隣のベインにイラッときた。
「嘘でしょう?今何て言ったの?」
「……何が?」
私が苛つきを隠さないままベインの発言を聞き返すと、ベインは私の声音から喧嘩の開戦を察したらしく、一段と低い声で応戦の姿勢を示してきた。
「……ねえ。ベインには人の心ってものがないの?
私のことを無視して、よくいきなり夕飯とお酒のことを考えていられるわね。」
「は?何の文句?常に自分の気持ちを察して常に寄り添って『そうだね〜』って言えって?そう言いたいわけ?
級長、マジで面倒くさいよ。本当に。毎回同じこと言ってんじゃん。」
「今日は全然違うでしょ?!私『役場に行くのが怖い』なんて言ってないじゃない!……っ、私の言ってること、全然聞いてくれてなかったんだ!」
「はぁ〜?!何いきなりキレてんの?!内容どう考えても同じじゃん!俺の言うこと聞かずにブツブツ言い続けてんの級長っしょ!」
「ねえ!じゃあ何で私が毎回こんなにも怖い思いしてるのに、全然それを分かってくれないのよ!もう半年も一緒にいるのに!」
「もう半年もこれでいるんだから大丈夫だっつってんの!……っつか『目立ちたくない』っつって喚いてる級長が一番目立ってんじゃん!」
「『喚いてる』?!何それ!……っ、そうよ!目立ちたくないのに!どうしてくれるのよ!!
──もう嫌っ!今のこれで目立って誰かに目撃でもされてたら──……っ!もう!怖い!どうすればいいの?!私──っ!!」
「そこで勝手に発狂すんなよ!面倒くせーな!」
「っ、は?!『勝手に発狂』?!何でそんなことが言えるの?!!信じられない!!」
ギリギリ残った理性で《駆け落ち》や《聖女》の単語は伏せて、でも完全に頭に血が上って、私たちは街の役場の中で大喧嘩をし始めてしまった。
…………振り返ると、あれが一番馬鹿で愚かな喧嘩だった。
ベインは完全に油断していたと思うし……私も。
私も父が怖いと言いながら、周りの人にたくさん目撃されて自分のことがバレてしまう恐怖よりも、私の気持ちに寄り添ってくれないベインへのショックの方を優先してしまっていた。
ベインに理解してもらいたい気持ちを、切実にぶつけてしまった。
あの喧嘩の終わりは、本当に馬鹿みたいだった。
戸籍関連の窓口の近くで「半年も一緒にいた」「大丈夫だ」「不安だ」「理解してくれない」と大喧嘩を繰り広げる若い男女二人。
どうやら役場の人には「婚姻届を提出しに来たのに突然マリッジブルーになって自分の戸籍を見ながら迷い出した彼女」と、「そんな彼女の気持ちを無視してさっさと婚姻届を出してしまいたい彼氏」……に見えたらしい。
夕方の役場で怒鳴りあっていた私たちは、温厚そうなおじさん職員に気を遣われて別室に案内された。
「……事情はよく分からないけど、もしかして結婚を親御さんに反対されているのかい?」
私とベインはそこで察した。
冷静になって当初の目的を思い出し、お互いに腹は立てながらも「さすがにこれ以上の悪目立ちをするわけにはいかない」と無言で意思疎通をした。
「…………いえ。反対はされていません。」
私はとりあえずそう答えた。
「君はまだ納得できていないのかい?
……彼氏くんに言いたいことがあるなら、流されて我慢してはいけないよ。結婚の届け出をしてしまう前にきちんと伝えて話し合っておくんだよ?」
私のことを「強引な彼氏に押し切られそうになっている自己主張が苦手な彼女」だと予想して心配してくれるおじさん。
すると、横にいるベインから物凄く苛ついている気配がしてきた。「コイツが俺に『流されて我慢』?……ふざけんなよ。」と言わんばかりの。まるで殺気のようだった。
大型飛竜すらも倒せるベインの殺気は、他人からすると洒落にならないくらい怖かったんだろう。そのせいで、おじさんは私とベインの関係をこう察してしまったようだった。
「……君。君はよく考えたほうがいい。
反対されていないというのなら、今一度親御さんとも相談してきなさい。二人だけで話し合って決めては駄目だ。
──……彼といて本当に幸せになれるのか。今、君は本当に幸せなのか。
きちんと考えてから、結論を出しなさい。いざとなったら親御さんに守ってもらうんだよ。」
ベインは完全に「彼女を自分の言いなりにさせようとしている支配欲の強い男」と認定されてしまっていた。
「そして、君。君は彼女の夫を名乗りたいのなら、あんな風になるべきではない。
……彼女の顔を見なさい。泣いてしまっているじゃないか。
君は彼女を幸せにしていない。彼女を今、この役場で『不幸』にしてしまったんだ。
──今の君に、彼女の隣にいる資格はない。
今日は君たちの婚姻届は受け取れない。帰ってもう一度、お互いによく考えなさい。」
「「………………はい。」」
そして私たちは、さっきの喧嘩を目撃していた人たちからの嫌な注目を浴びながら、無言で並んで役場を出た。
お互いに気まず過ぎて、喧嘩どころじゃなくなっていて……それで、私はさすがにベインに気を遣って謝った。
「……ベイン。おじさんにベインのこと勘違いさせちゃって、ごめんね。
今日はあの酒場に行こう。ベインの言う通り。」
「………………。」
顔に「もう飯食って酒飲む気分じゃない」って書いてあるベインに、私は冗談を言うのは苦手だったけど、頑張って冗談を言ったんだった。
…………ベインが、私の父のような酷い男だって誤解されたのが、物凄く嫌だったから。
少しでも早く払拭したかったから。早く気分を変えたかったから。
「……ねえ。私たち、ちゃんと恋人みたいに見えてたってことよね。
私たち、上手く《駆け落ち》できているんじゃない?」
私がそう言ったら、ベインは不満そうに口を曲げて
「…………『隣にいる資格はない』って何だよ。」
って一言吐き捨てた。
私がそれに笑ったのが、あの一番愚かな喧嘩の終わりだった。
いつもはいろいろ不安になってしまう慎重な性格の私にベインが「大丈夫」って言ってくれることばかりだったけど、あの日だけは逆だった。
喧嘩が終わった後もずっと不愉快そうにしていたベイン。的外れなおじさんの説教を珍しく引き摺っていた彼に、私は夕食を食べながら「大丈夫よ。あれはベインのことじゃないから。ただの誤解。ただの勘違いだもの。」って何度も伝えた。
そうしたらカウンターで様子を見ていた酒場の店主に、今度はベインが「彼女に気を遣わせてしまっている弱気な男」認定をされてしまって
「恋人を不安にさせるようなことしてんじゃねえよ。
男なら、女の前で情けねえ顔見せんじゃねえ!」
と、また説教をされてしまった。
ベインはその日はもう完全に不貞腐れていて、ひたすら「さーせんっした。」と謝りながら酒を煽っていた。
◇◇◇◇◇◇
私たちは恋人じゃなかった。
ただそう見せかけているだけだった。
でも、恋人じゃないけど、いつからだったか……途中から《駆け落ち》らしく、恋人のようなこともするようになった。
どっちが言い出したかは忘れてしまった。
……どっちも、決定的なことは言っていなかった。
「好き」も「愛してる」も「付き合おう」も……お互い、絶対に言わなかった。
でも、だんだん隣に座る距離が近くなって、うっかり置いた手が触れ合ってしまっても──……お互い手を引かずに、指を少しだけ絡めるようになった。
目が合えば笑い合うだけだったのが──……いつからか目が合えば、どちらからともなくその目を閉じて、唇を重ねるようになった。
狭い宿屋では私にベッドを譲って、床やソファーで寝ていた彼が──……いつの間にか、私の隣で一緒に寝るようになっていた。
ずっと私のことを「級長」と呼んでいたベインが──……恋人の真似事をするときだけは、優しい顔で「ユキア」って、私の名前を呼んでくれた。
彼に「ユキア」って呼んでもらえたときだけは、自分の名前が好きになれた。自分のことが好きになれた。
そしてふと気恥ずかしくなってしまったときには、決まって
「何だか、本当の《駆け落ち》みたい。」
って、お互い冗談にして笑っていた。
……絶対に、どっちもこれが本当の《駆け落ち》だとは認めなかった。
ベインはどうだか知らないけど、私は──……怖かったから。
彼に、思い入れを持ってしまうのが。離れたくなくなってしまうのが。
終わりが来るって、分かっていたから。
だから、絶対に本気だって、認めたくなかった。
…………もう、そう思っている時点で、とっくに手遅れだったのに。