10 ◇回想◇ 失敗必至の逃避行(4)
全12話+後談1話執筆済。基本毎日投稿予定です。
〈注意書き〉
過激ではありませんがR15相当の描写があります。暴力的要素等が苦手な方はご注意ください。
私が「手遅れ」だったと気が付いたのは、順調に逃避行を続けて1年半が経った頃。
数ヶ月振りに大きな街の役場へ行って、戸籍を調べて……そこで狙い通りにすべてが上手く行ったことが、分かってしまったときだった。
──私が絶縁手続きをされていて、姓氏が消え、家族間のすべての権利や金銭保証が共有できなくなっている。
この事実が、そこでようやく確認できた。
私は素直に喜んだ。
役場で確認が取れたとき、思わず「やった……!」って、その場で呟いてしまったくらい。
…………でも。
私は次の瞬間に、冷たい真冬の海の中に突き落とされたような気分になった。
「おー!良かったね。
……じゃあ、そろそろ終わりにしよっか。」
隣で普段と変わらないゆるい口調で、ベインがそう言ったから。
「………………えっ?」
私が思わず呆然としてベインの顔を見上げると、ベインは私の視線に気付いて目を合わせて……それから、笑って首を傾げてきた。
「え?……もしかして級長、忘れちゃった?
これ、普通に『計画通り』っしょ?
だからもう、終わりじゃね?……あとは自首して、それぞれ実家の親父を告発するだけ。……違ったっけ?」
……そうだった。忘れていた。
最近、分かり合えてきた気になっていた。けど、
…………ベインは、もともと狂ってる奴なんだった。
私は指先が冷たくなっていくのを感じながら、必死に平静を装って首を振った。
「ううん。忘れてない。忘れるわけないじゃない。」
するとベインは首を傾げたまま、恐ろしいことをすらすらと続けて言ってきた。
「ん〜、どうする?
俺は別にもう、この場で自首しちゃってもいいけど。ちょうど役場にいるわけだし。
級長は何か準備とかいる?今のうちにやっときたいこととかある?」
私は慌てて「ちょっと!とりあえず、役場を出てから話そう。変なこと言ってたら周りに不審がられちゃうから。」と小声で言いながらベインの腕を引っ張って、街の役場を離れた。
「…………で?どうすんの?これから。」
街中で話す気にもなれなかったから、私たちは街の外に出て、少し話しやすそうな木陰に座って相談することにした。
「どうするって……そんな、急過ぎるって。」
私はベインの問い掛けに俯いて、そう呟いた。
するとベインは沈む私の様子を見て、筋違いの納得をしてきた。
「まあ、級長は【聖女】だもんなぁ。
俺より覚悟いるのかもね。……だったら、何日かゆっくりしてからでもいいんじゃね?」
「は?」
私は思わず顔を上げて、間抜けなベインの顔を睨むようにして見てしまった。
「……ベイン。何を言っているの?」
「『何』って?」
「今、私が聖女かどうかって、関係ある?」
「……?どういうこと?」
私は自分でも何を主張したいか上手く纏められないまま、ベインに必死に私なりに訴えた。
「ねえ。私たち、ずっと一緒に逃げてきたわよね?」
「そうだね。」
「1年半よ?1年半も、ずっと逃げてきてたのよ?」
「そうだね。俺ら、けっこうよくやったと思わね?《駆け落ち》の才能あるわ。マジで。」
「っ、そうよ!私たち、ここまで上手くやってきたの。こんなに上手くやってこれたの。……だから、だからね?ベイン──……」
「──だから、何?
級長の目的ってさ、最後に『自首』して『告発』しないと、成立しないやつじゃなかったっけ?違った?」
「…………っ!」
私は目の前の気狂いのベインに震えながらも、咄嗟にまた頭の中で何とか返しを考えて、彼にぶつけていった。
「それは、そうだけど!……でも私たち、もうこのまま上手くいけると思わない?
このまま逃げ切って、それで落ち着いたらどこかで定住すれば──」
「は?何言ってんの級長。そしたら目的果たせなくなるけど。いいの?」
「よくない。よくないけど……でも、だって、自首したら終わっちゃうじゃない。この生活を今すぐに終わらせるなんて、そんなのやっぱり急過ぎない?」
私の噛み合わない返しに首を傾げながら、ベインは淡々とした口調で私のことを突きつけてきた。
「……ああ。自首すんのが嫌になったってこと?
でも『自首』とか『告発』とか全部投げ出すとしてもさ。さすがに一生逃げんのは無理あるっしょ。
…………違うか。
──……級長さ。さすがに一生『自分が聖女だ』ってこと隠したまま生きてけないっしょ?
級長、真面目だから。
その能力を死ぬまで使わずに腐らせる気はないんじゃないの?」
「っ、それは……!」
「もし目の前に俺以外の重傷者がいたらさ、級長、能力使わずに無視できんの?
蘇生できそうな死んだ奴見かけて、そのまま放置できんの?
…………級長の性格じゃ、絶対無理だよね。
実際、あんとき旧校舎で俺に能力使ってきたじゃん。『どうせ自首するから』っつって。
だから大人しく計画通りにした方がいいと思うよ。
級長が後悔して耐えられなくなんの、目に見えてるから。」
「違う!そうじゃなくて……っ、私は──……」
そしてベインは口籠る私の目を真っ直ぐに見つめて、私にトドメを刺してきた。
「…………級長。
この《駆け落ち》に終わりが来るってことくらい、ずっと分かってたじゃん。
いい加減、ごちゃごちゃ考えんのやめなよ。
毎回そうやって考えたってさ、どうせ結局やることになるんだから。」
……………………
「………………ベインは、寂しくないの?
……嫌じゃないの?私と離れるの。」
何とか絞り出した私の返しは、信じられないくらいに見苦しい、ひどく手遅れな言葉だった。
「……だって、自首したら懲役刑なのよ?
そうなったら私たち、もう一緒にいられないのよ?」
震える口から勝手に続けて出てきた手遅れな感情に──……1年半で積み上げてしまったベインへの重過ぎる感情に、私はそこでようやく気が付いた。
……気が付いてしまった。
1年半前、ベインを「ただのクラスメイト」だと思っていた頃には、考えもしなかった事実に。
「…………ねえ、ベイン。待って。
落ち着いて考えたら、全然釣り合ってない。
……聖女の私は最低『懲役10年』。
でもベインは……最低でも『懲役30年』ってこと?」
私が言いながら絶望したところで、ベインは私のことを変人でも見るかのような目で見てきた。
「は?今さらそこ確認すんの?」
それからベインは、躊躇うことなくこう言ってきた。
「最初に『釣り合ってる』って確認したじゃん。
級長、マジで忘れちゃってんだね。」
「…………何が?」
私がもう絶望で真っ暗な中で震えているのに、ベインは全然譲る気がなかった。
「言ったじゃん、俺。
──『級長の力を借りて飛竜の親子倒せんなら、俺はそれで充分釣り合う』って。
級長のお陰でアイツらを守れたから、俺はそれでいいんだって。だからあとは級長の目的のために付き合うって。そういう話じゃなかったっけ?
俺、普通に思っきし『聖女の能力の私的利用』したじゃん。それを自首することの何が問題?」
「…………アイツらって、それ──……『牛と、羊と、ヤギ』でしょう?」
私がそう聞くと、ベインは「そう。アイツら、元気にしてっかな。」と言って場違いに優しく笑った。
「……その子たちのために、ベインは本気で30年も罪を償うつもり?
…………おかしいわ、おかしいわよ。
ねえ。……そんなの、全然釣り合ってないじゃない!!」
私がそう叫ぶと、ベインは本当に狂った感覚で、私のことを励ましてきた。
「俺は最初っから納得してんだけど。
何で級長がそんなになってんの?級長は関係なくね?
──級長は、俺と違って懲役10年くらいで済むからさ。
俺よりマシだって思っとけば、少しは気が楽になるんじゃね?」
「──っ、違う!!私は自分の心配をしてるんじゃない!!
ベインのことを言ってるの!!!
30年も服役したら、50歳になっちゃうのよ?!
そんなの、おかしいじゃない!!ベインは何とも思わないの?!!」
私は怒鳴って、必死になって訴えた。もう自分でも何が言いたいか分からなかった。
でも、ベインにどうしても、どうしても理解して欲しかった。
おかしいのは私じゃない。ベインの方。狂っているのはベインの感覚なんだって。
ベインが懲役30年だなんて、そんなの納得しちゃいけない。全然釣り合ってないんだ──って。
「ねえ!私の言いたいことが分からない?!何でこんなに伝わらないの?!
──っ、ベインは私と離れるのが嫌じゃないの?!
私がいなくなったら、ベインは寂しくないの?!!」
私がもう一度見苦しい感情を叫ぶようにして突きつけると、ベインはそこでようやく──……私から視線を外して地面を見つめて……そして私に視線を戻して、諭すように苦笑した。
「いや。まあ……寂しいけど……仕方なくね?
俺ら、分かってて犯罪したわけだから。」
私は受け入れられなかった。
望んでしたはずの計画の代償が、あまりにも大き過ぎたから。
たしかに私たちは、自分たちの大切なもののためなら、懲役10年も、30年も、余裕で釣り合うと思っていた。
…………でも想定外だった。
まさか、他にももっと大切なものができてしまうなんて。
あの大好きなお義姉様たち三人の幸せを願うのと同じくらい──……違う。それ以上に、ベインと離れたくなくなってしまうなんて。
そんなの想定していなかった。
ベインと離れなきゃいけないと思ったら……30年もベインが刑に服さなきゃいけないんだと思ったら──……全然、何もかも、すべてが釣り合わなくなってしまっていた。
──「私」と「ベイン」が、全然釣り合わなくなっていた。
「……私は嫌!私は嫌なの!!
私──っ、ベインと30年も会えなくなるなんて、そんなの嫌!……っ、怖い!──やりたくない!!
私はベインと離れたくないの!!!」
私はそこで、ついに我慢できなくなって泣き崩れてしまった。
「……………………。」
ベインはあの日、いきなり今さらなことを喚きだした私に怒ったりはしなかった。
いつもと違って、喧嘩にはならなかった。
ベインは表情を消した。
しばらく泣いている私を無言で見つめて……それから最後に、らしくなく気を遣ってくれた。
私のことを抱き寄せて、癇癪を起こした子どもを宥めるように、背中を軽くトントンと叩いてくれた。
「…………級長、大丈夫?
ちょっと落ち着きなよ。訳分かんなくなってるって。」
でも、私にとってはそれが、一番辛かった。……一番苦しくて、辛かった。
「──……っ、級長じゃない……『級長』じゃない!
『ユキア』って言って!……お願いだから『ユキア』って呼んでよ!!」
…………今なら分かる。あのとき私が本当は何を言いたかったのか。
ベインに、何て言って欲しかったのか。
でも、ずっと実の父親に愛されたことのなかった私たちは……
愛し合う両親の姿なんて見たことがなかった私たちは……
…………幸せな家庭に育った人ならば誰もがすぐに閃きそうな簡単な言葉に、どうしても、辿り着くことができなかった。
──「好き」が、「愛」が、どうしても理解できなかった。
「…………何か、本当に《駆け落ち》みたいだね。」
私のことを抱き寄せたまま、ベインは静かに、そう返してきた。
私の「名前で呼んで」は、「貴方が好き」の代わりの精一杯。
それで、彼の「駆け落ちみたい」は……きっと、「俺も好き」っていう意味だった。
でもあのときは何故か、私は「好き」っていう言葉を、大切なお義姉様たちにしか使えないものだと思い込んでいた。
……多分、彼も。彼も「好き」っていう言葉は、あの大切な乳牛のソラちゃんたちにしか使えないって、思い込んでいたと思う。
私たちはあのとき、お互いの気持ちを、たった一言だけを……最後まで言葉にすることができなかった。
◇◇◇◇◇◇
私は結局、気持ちの整理がつくまで、もう少しだけ彼と逃避行を続けることにした。
……でも当然、気持ちの整理の仕方なんて学んだことがなかったから、私は上手く冷静になることができなかった。
私はただ、お義姉様には好きな人と結婚してもらって幸せに暮らしてもらって、自分は父から離れて資産家ジジイとの結婚を回避したいだけだった。
……あの再婚家族の三人が幸せでいてくれて、私も殴られたり売られたりしなければ、それで充分なはずだった。
ベインはただ、大切な友達の牛と羊とヤギたちを、飛竜の親子から守りたいだけだった。
……領主であるベインの父親が、ただベインの言葉を信じてもう一度通報してくれればいいだけだった。
──ただ、普通に暮らしたかっただけ。
──魔物発生の通報をしてほしかっただけ。
…………それだけだったのに。
たったそれだけのことが叶わなかったから、私たちは罪を犯して駆け落ちをした。
聖女の能力の私的利用。
…………私たちの《駆け落ち》。
私たちは間違ったことをしたなんて思っていない。ただ大切なものを自分たちの手で守りたかっただけだった。
でも、それは世界から見たら「間違い」だった。……私たちがもう、一緒にいてはいけないほどの。
「……ねえ、ベイン。
私たちがもし……もし普通に、あんな親たちのもとじゃなくて、普通の貴族の家に生まれていたら……」
──……私たち、パルクローム領で、普通にお見合い結婚してそうじゃない?
同い年だから。
あの辺りは貴族の家なんて、そんなにいくつもなかったから。
……多分…………絶対、そうなっていた。
私の場合は、お義姉様は殺されずに普通に生きていて、資産家ジジイとも無縁の生活を送っていたはず。
ベインだって、普通に「何だと?!飛竜?!大変だ!」って言われて、そのまま王国に通報してもらえて……もしその通報一回が空振りに終わっても、何度でも、何度でも信じて通報してもらえていたはず。
それで、聖女の能力に気付いていないただの子爵令嬢の私と、領主家の次男のベインは、お見合いで結婚をするの。
お互いに「気が合わなそう」って言いながら微妙な距離感で過ごしていって……でもすぐに、絶対に今みたいに、自然と恋人のような……夫婦の真似事ができるようになっていたに違いない。
一生、聖女の能力が覚醒しないままでもいい。
何人か子どもを産んで、相変わらず気狂いのベインとお互いに噛み合わない喧嘩でもしながら、四苦八苦して子育てをするの。それで、多分ベインなら……ベインとなら──……不倫も、暴力もない、ごく普通の家庭が築けたはず。
上手く子どもたちを可愛がれているか分からなくなっても、不安になるたびにベインと「『家族』って難しいね」って笑い合いながら、親子の真似事をやり切るの。
……ただ、聖女の能力が覚醒したらありがたい。
王国の保護対象になって、国に頼まれてちょっと能力を使うだけで、お金がじゃんじゃん入ってくるようになるから。
ろくに働く必要もない。家畜の世話以外ろくにする気もないベインだって、私の横で安心してゴロゴロして過ごせるはず。私は「私ばっかりが働いてるじゃない!」って文句を言いながら……でも、余ったお金の使い道なんて思いつかないから、結局ベインと二人で家でゴロゴロしながら過ごすの。
…………そんな平和で楽勝な人生を、他の人たちは当たり前のように歩んでいるなんて。
「ずるい……みんな、ずるい。
…………私も、普通の家に生まれたかった。」
上手く口に出せなかった感情をたくさん飲み込んで、ほとんど伝わらない一言だけを、私は何度も呟いた。
ベインがそれをどう受け取っていたかは分からない。
でも、ベインは私が泣きながらそう言うたびに──……何も言わずに、黙ってただ私のことを優しく撫でてくれた。
ベインがらしくなく気を遣ってくれたせいで、私は気持ちを整理するどころか、どんどん手遅れになっていってしまった。
だから、何とかしなきゃいけないと思った。
そうして泣きながら数ヶ月過ごしたあたりで、私はとうとう耐えられなくなって、ベインに先に自首されてしまう前に行き当たりばったりの「計画変更」を決断した。
◇◇◇◇◇◇
私の取った行動は、もう一度逃げることだった。
今度は父ではなく、ベインから。
逃げ方は単純。
宿屋でベインが寝ている隙に、私はそっと逃げ出すことにした。
……ベインは宿屋では一度寝たら全然起きないって、この逃避行の間に知ったから。だから大丈夫だった。
家畜の世話があったあの駆け落ち初日か、野宿中に魔物や獣の気配がしたとき。それ以外では、ベインは私よりも絶対に後に起きる。
宿屋を出なきゃいけない昼近くの時間になっても、私が起こさない限りずっと寝ている。軽く揺さぶるくらいじゃ全然起きない。しかも起きてからもぼーっとする時間が10分は必要。
最初の頃は、宿屋を早く出て次の町に移動したい私と少しでも長く寝たいベインで、くだらない喧嘩もした。
でも今は、もう慣れた。
うつ伏せになって布団にくるまって寝ているベインを置いて町の朝市に買い出しに行って、ついでに朝食を食べて、ベインの分の朝食も買って──そして私が帰ってきてもまだ同じ姿勢で寝ているベインを見るのは嫌いじゃない。
そんなベインの横で、宿屋を出るための荷造りをするのも嫌いじゃない。……むしろ、その一人だけど一人じゃない私だけの特別な時間が、心地良かった。
……ベインに関するくだらない知識だけが、1年と8ヶ月の逃避行の間に増えていた。
変更した計画の実行当日。
私はベインが寝てしばらくして、夜のうちにベッドを抜け出した。
それから書き置きの手紙を書いた。
便箋と切手なんてちゃんとしたものじゃない。荷物の中に入っていた、ただの裏紙に書いた。
〈私は先に自首します。
ベインは私が刑期を終えるまで、自首しないでください。待っていてください。
私の『告発』は、自首しないと成立しない。
私の場合は、3年前にお義姉様に治癒魔法を使ったことを明かさないと話が通らないから。
でも、ベインの『告発』は、自首しなくても成り立つ。
私の力を借りずにベインが魔物を倒したことにすればいい。通報記録さえあれば、辻褄が合うはずだから。
私だけが自首すれば、そうすれば全部が上手くいく。
私だけが10年服役すればいい。それで、聖女認定を受ければいいだけだから。
ベインは自首しなくても、30年も罪を償わなくても大丈夫。ベインがそんなことをする必要はないの。
だから早まらないで。絶対に私が出所するまで待っていて。お願いします。〉
これならばいけると思った。
ベインが言ってきたことを、全部論破できていると思った。
…………でも、ベインが納得してくれるとは思えなかった。
まだこれじゃ、駄目な気がした。
だから私は続けて、粘って最後に書こうとした。
〈勝手に貴方を置いて行って、一人にしてしまって、ごめんなさい。
でも、これが私たちにとって最善の道だと思います。
。お願いだから、分かってください。〉
何かを、何かを最後に書かなきゃいけないと思った。
ベインに、私の一番伝えたい動機を──ベインを納得させるだけの強い何かを、分かってもらわなきゃいけないと思った。
でもそのときも、私はどうしても書きたい言葉を見つけられなかった。
…………私は結局、無駄に余白だけが残った手紙をそのまま机の上に置いて、ベインを残して宿を去った。
◇◇◇◇◇◇
そもそもベインがいないと私は魔物も獣も倒せない。
魔物や獣に遭遇しないことに賭けてまた山の中に入って野宿をしながら逃げることも考えたけど……私は一人で山に入るのが怖かった。ベインが隣にいないのが怖かった。
だから私は馬車を使った。
夜中に馬車屋の扉を無理を承知で叩いた。
そして、文句を言いに出てきた御者に問答無用で金を握らせた。
御者に「知人の男に追いかけられている。一刻も早く逃げたい。夜道が危険なのは分かっている。でも隣町まででいいから、今すぐ連れて行ってほしい。」と言って、相場の7倍の金額を渡した。
それから「誰かが私のことを尋ねてきても『知らない。馬車は出していない。』と答えてほしい。」とお願いをした。
御者は私が渡した金を驚きながら喜んで受け取って、私の話をまったく疑わずに了承してくれた。
ベインには申し訳なかったけど、私は全財産を持ち出していた。
ベインに本気で追いかけられたら、弱くて体力もない私はすぐに追いつかれてしまうから。だから金で足止めをするしかなかった。
宿屋の料金は前払いだったから、宿屋自体からは出られるだろう。でもそこからは、お金が無ければ当然馬車になんて乗れない。ベインなら脚に強化魔法を掛けて馬車が行ったであろう道を走ることもできるかもしれないけど……でもそれだと、途中で身体が空腹で悲鳴をあげてしまうだろう。
ベインからしたら私がどの道を行ったか、山に一人で入って行ったかも分からない。だから私を追いかける前に、まず何かを食べる必要があるだろう。
冒険者ギルドで依頼の一つでも受けて最低限のお金を稼がないといけなくなるはず。その時間だけでも稼げれば、大丈夫。私はその間に別の街で馬車を乗り継いで、もっと遠くへ逃げるから。
ベインなら、全財産が持ち出されていても死にはしない。だから大丈夫。
……朝とは言えない昼前に起きて、私がいなくて、お金も無くなっていて、それであの書き置きの手紙を見たら……ベインは、何て思うだろう。
きっと……今までで一番激怒する。
今までで一番悲しんで……もしかしたら、泣いてしまうかもしれないわ。
…………ベイン、大丈夫かな。
そうして馬車で揺られながら夜道を眺めて、ベインのことを考えていたら、御者に不意に
「──あんた、あそこの娼館の人間だろ?
たまにあるんだよ。こういうこと。あんたは今までの中でも一番羽振りが良いからな、隣町とは言わずにもっと遠くに連れてってやるよ。」
と言われた。
私はそこで、急に「現実」に戻った気がした。
一気に夢から醒めた気がした。心が冷えて寒くなった。
実家にいたあの頃の……自分が嫌いだった頃の「ユキア」に、その一瞬で戻ってしまった気がした。
御者のその勘違い自体は私にとって都合のいいものだったから、私は「……そう。あそこから逃げ出してきたの。」と頷いた。
「あんた一番の売れっ子なんだろ?顔見りゃ分かるよ。羽振りが良いのも納得の美人だ。
……金が貯まったから逃げんのか?そしたら、あんたの人生はこっからだな!ま、上手くやれよ!」
水商売から足を洗って新たな人生を歩もうとしていると勘違いして、私のことを応援してくれた優しい御者。
その御者の言葉を聞いた途端に、涙が出てきた。
…………そうだった。忘れてた。
私はそういう風に見える女なんだった。
もともと私の顔は、母親似の娼婦顔なんだった。
──……見た目だけじゃない。ベインを置いて逃げている今の私、まるで……本物の母みたい。
その事実に気付いてしまった瞬間、私はひどく吐き気がした。
◇◇◇◇◇◇
そのまますぐに自首してしまうことも一瞬考えたけど、私はそうはしなかった。
私が聖女の能力を使ったのは、過去に5回だけ。
能力が覚醒したのは、お義姉様を蘇生したとき。
残りの4回は、ベインを再生したとき。
どちらも、警察には言いたくなかった。
お義姉様には自分を責めさせたくなかったし……死んでいたお義姉様と違って、ベインの場合は再生だから。ベインのときのことを話したら、彼が私の聖女の能力を目撃した上で黙っていたことも芋蔓式にバレてしまうと思った。
適当に嘘をでっち上げても良かったけど、それでさすがに一つも証言の裏付けが取れなかったら、結局怪しまれてしまうかもしれない。……特にベインの《聖女隠避罪》は絶対に疑われてしまう。
そう思って、私は聖女の能力の目撃者を他に作ることにした。
馬車を何度か乗り継いで、私は大きな街に出た。
それから街で一番大きな病院に行って、そこに緊急患者が運び込まれるのを待った。
入り口付近でうろつきながら、運び込まれる患者たちの様子を窺った。
聖女には病は治せない。
だから、事故や魔物襲撃に遭った負傷者。そういう人を待った。
しばらくして、運良く……というと不謹慎だけど、都合よく条件の揃った患者が現れた。
近くの工場の作業員。機材の事故で手首が切れてしまったらしい。
私はそこで周囲の人間に止められる前に患者のもとに駆け寄って、周りの医師や看護師、救急隊員が「何だ君は?!」と言ってくるのを無視して、一気に治癒魔法をその作業員に掛けた。
余裕だった。すぐに作業員の手は再生した。
「………………【聖女】様?」
医師が呆然としながら呟いたのを聞き取ってから、私はその場を走って去った。
それから、一応きちんと逃亡した。
馬車で別の町まで移動した。そしてその町でも、同じことを繰り返した。そこでは町の外れで火事が起きていると騒ぎがあったから、私は敢えてそっちに行った。
そこでは運良く……いえ、運悪く亡くなってしまっている人がいた。
遺体に縋って泣いている彼女らしき人を無言で押し退けて、私はその遺体に治癒魔法を全力で掛けた。
そして蘇生が成功し、彼が息を吹き返したのを確認してから、また無言で走って逃げた。
1週間のうちに、2件。
これで充分だろう。王国の認可を受けていない野良の治癒魔法使い。私はすぐに捜索されて逮捕されるはず。
今までは、聖女の能力を使いたくなる場面になんて、全然遭遇しなかったのに。
狙って探しに行ったとはいえ……運悪く、すぐに2回も遭遇できてしまった。
ベインと離れて、自分の運気がガクッと下がっているような気がした。
自分の周囲を取り巻くものが、すべて不幸になっていくような気がした。
…………ああ、そうだわ。そうだった。
私がベインと別れてから逮捕されるまでの期間を「1週間」じゃなく「2ヶ月」って当時誤魔化した理由。
我ながら嘘臭いと思ったんだった。
彼と別れた途端に、こんなにも立て続けに不幸に遭遇するなんて。
そんなのおかしいと思ったんだった。
…………ミカさんに嘘を教えちゃった。
私は見栄を張って嘘をついたんじゃない。
少しでも自然に見せようとしたんだった。
ベインとの別れと、その後の自分の人生の変わりようを。
急にまた自分のことが嫌いになって、急に運が悪くなったから……その落差を何とか埋めようとしたんだった。
…………くだらない。
今振り返ると、そんなの、警察からしたらどうでもいいことだったわ。
聖女の能力利用の事実が確認できれば、それでいい。駆け落ち相手と別れた時期の1ヶ月半程度の誤差なんて、正直興味すら無いわよね。
…………そんなどうでもいい運気に拘っていたのは、きっと私だけだった。
それで、もう一度別の街に逃げようとしたところで──私はあっさり、手配書を持った警察に声を掛けられて、狙い通りに逮捕された。
それが、私の逃避行の終わりだった。
◇◇◇◇◇◇
捕まって、1週間ほど圧のある取り調べを受けて──それからしばらく、もっと圧のある尋問を受けて──……そうして私の刑期は確定した。
警察には、私がパルクローム領から《駆け落ち》をして逃げた女だと、すぐに調べられてしまった。
その駆け落ち相手のベインの詳細を黙っていたり、聖女の能力利用を隠していた意図がいまいちよく分からなかったり。
若干の不自然さはあるものの、悪質性はない。この能力で法外な金を取ったり、何か取引していたわけではない。ただ勝手に治癒能力を使っていただけだから、懲役は最低の10年。
逮捕された約1ヶ月後に裁判官にそう言い渡されて、私は王都の修道院に収容された。
そうして10年続く退屈な日課をこなす日々が始まって──……
……私の逮捕の報道を知りすぐにリサお義姉様が来てくれてから、ちょうどぴったり1週間後。
ベインが、初めて懺悔室にやってきた。
お金が1リークたりとも残されていなかったあの宿屋から、ベインはちゃんとすぐに王都に辿り着いていた。
そして私の逮捕の事実を知って、私の懺悔室の時間のことを知って……ベインは、ここまで来てくれた。
「級長。…………あれ、何。どういうつもり?」
格子越しのベインの声には、明らかに怒りが滲んでいた。
「ごめんなさい。やっぱり私、耐えられる気がしなかったの。10年も一人でいられる気がしないの。
……だから、こうやってまた話に来て。10年間、声だけでいいから……声を聴かせてほしい。」
私がそう言うと、ベインは私の意図に気付いてくれていないのか、それとも汲み取った上で無視したのか……多分、無視をしてこう言った。
「………………分かった。そういうことね。
じゃあいいよ。あと10年、最後まで付き合うよ。」
その言葉を聞いたとき、私は自分の新たな計画が失敗してしまうことを確信した。
──……「最後まで付き合う」。
ベインの言う「最後」は、人生の終わりじゃない。
私の刑期の終わりのこと。
ベインは私の書き置きの手紙に、全然納得していなかった。
ベインは……自分の犯した罪を隠して、出所した私を抱きしめて、私と人生が終わるまで一緒にいてくれるつもりじゃない。
こうして服役している私に付き合って声を聴かせにきてくれて……私の刑期が終わったら、次は交代で自分の罪を償いに行ってしまうつもりでいた。
私は今、本当は「30年も一人でいられる気がしない」って言いたかったのに。
……書き置きの手紙に書いた通り、ベインには黙っていてほしいのに。
──……私は、まだ……もう一度ベインと一緒にいたいだけなのに……!
もうこれから先10年間、私と彼が話し合えるのは、この懺悔室の格子越しの声だけ。
魔法管理官に監視されながらの、罪を伏せた会話だけ。
…………打ち合わせは、もうできない。
そんな状態で、私は10年の間にベインの気を変えなきゃいけない。
躊躇わずに身体の一部を捨てながら飛竜と戦っていたあのときのように、躊躇わずに自分のこれからの30年を捨てようとしている……この「気狂い」のベインを。
………………無理だ、……無理よ。…………やっぱり、無理だわ。
私は絶望の中、泣きながら《駆け落ち》の最後を後悔した。
それでも、何とか頑張って粘ってみたけど……結局私は彼の気を変えることができずに、とうとうここまできてしまった。