ぽちゃ
風が止まった。虫や鳥の声どころか、木々の葉のすれあう音すらも聞こえない。
一歩踏みだすたびに枯葉が壊れる音が響く。
壊れる音だけが辺りに響き渡る。
倒木の先に、左右の木の間に荒縄が張られているのが見えた。
道は立ち入る人を吸い込む様に、まっすぐに続いている。
荒縄の先はなんとなく暗く感じた。暗いというよりは圧迫感。
背中に寒気を感じるほどの。
陽菜といっしょだからここにいられるものの、一人だったらとうに逃げ出している雰囲気。
「ねえ、陽菜」
私は陽菜のブラウスをつかむ。
「美優、見えてきたよ。あれが沼かも」
荒縄の先を陽菜は指差す。木々の間から、灰色とも、緑色ともとれない不気味な水面が確かに見えた。
「せっかくだからもう少しだけ行こう。まだ暗くならないよね」
陽菜にはこの威圧感が伝わっていないようだ。
一人で進ませてはいけないと思い、私は陽菜の背中に続く。
倒木を越え、荒縄をくぐるとあたりの雰囲気は今まで以上に重く感じられた。
そして、沼に出た。
そこまで大きくない池の様な沼。山道はそこが終点だった。
暗い緑の、伸び放題の緑に囲まれたその沼は、虚空に続く様に暗く佇んでいた。
先日の台風のせいか、沼の奥には何本もの倒木が見えた。
沼の周囲は、腐った水の匂いが漂う。
『近づきたくない』と思わされる腐敗臭。
誰の手も入っていない、荒れ放題の沼の中央から『ぽちゃ』と、音がした。
「美優、あれ」
後ろを振り返った陽菜が、何かをみつけて指をさす。
陽菜の指を視線でたどると、何かの大きな石碑があった。
風化して書いてある字はよくわからなかったけれど、お経のようなものが書かれている気がした。
矢庭にカラスの声が、誰かの叫び声の様に響いた。
沼の奥の方から音がする。
ぽちゃ。
何かが落ちた音?
ぽちゃ。
近づいた気がする。
ぽちゃ。
さらに近づいてきている。
林の奥から男たちの話し声がヒソヒソと聞こえる。
今度は女性の声。
耳をすますと子供の声も聞こえる。
何を言っているかはわからない。
鳥がまた、ひときわ大きな声で叫んだ。
「陽菜」
私は友人の名前を呼ぶ。青ざめて振り返る陽菜。
「聞こえた? 水の音。それから人の声」
「うん。聞こえた。どうしよう? 逃げる?」
「当たり前でしょ。逃げよう」
私たちは一目散にそこから離れた。