更生計画発動
朝。
母の焼いたトーストの匂いと、テレビのニュース音で目が覚めた。
布団の中でスマホをいじりながら、天井をぼんやりと見つめる。
昨日の夢が、まだうっすらと胸に残っている。
光の差す教室。笑っていた“あの子”。名前は思い出したくない。
「兄さん、降りてこないの?」
弟の優翔が、部屋の前から声をかける。
「……あとで行く」
「陽菜、もう来てるよ」
ピンポンもなく、ドアが開く音。
そして、聞き慣れた声が響いた。
「おーい、ブタオ!今日から本気出すよー!!」
陽菜だった。
相変わらず、朝から全開。
⸻
「で、なにそのテンション」
着替えてリビングに降りると、陽菜はダイニングテーブルの上に、謎の紙を広げていた。
「名付けて!《ブタオ更生計画》ッ!」
「そのまんまじゃん」
「言い直すと、《本来の佐藤舞太夫くんに戻ろうプロジェクト》」
「長いわ」
横で母がにこにこしながら紅茶を入れている。
「陽菜ちゃんが来てくれると、家の中が明るくなるわ〜」
「舞太夫、見習いなさい。少しはまぶしい青春を浴びるのよ」
「UVケアしてるんだけどな……」
⸻
数十分後。
僕はリビングの椅子に座らされ、陽菜が何やら準備を始めていた。
「……で、それは何?」
「これ? ハサミとコーム」
「まさか――」
「そう。今日は髪を切る!」
「家で!?」
「美容師志望をなめるな。道具と腕さえあれば、場所なんて関係ないの!」
陽菜はやたらと慣れた手つきで、僕の髪を指先で持ち上げてから、口をすぼめた。
「これは重症だな。セルフネグレクトってレベルじゃない」
「悪かったな、放置してて」
「いや、ここまでくると逆に切りがいある。やる気出る」
「……本当に、大丈夫なの?」
「心配しないで。これは練習じゃない。本気でやるから」
「……そっか」
僕は少し姿勢を正した。
陽菜の顔が、いつになく真剣だったからだ。
⸻
チョキ、チョキ――。
ハサミの音が静かに部屋に響く。
不思議とそのリズムが、心を落ち着かせてくれた。
「そういえばさ」
「ん?」
「美容師になりたいんだったよな」
「うん。今、見習いやってる」
「……頑張ってるんだな」
「まあね。夢だから。あんたも、ちゃんと夢とか持ったほうがいいよ」
「持ってたかもしれないな、昔は」
思わず、ぽつりと口に出していた。
陽菜の手が、一瞬だけ止まり――でもすぐに、また優しく動き出す。
「……じゃあ、その“昔”を取り戻そっか」
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「できた!」
手鏡を手渡されて、自分の顔を覗く。
前髪は整えられ、サイドはスッキリ、襟足も綺麗に。
鏡の中にいるのは、「いつもの僕」じゃない僕だった。
「……めっちゃ変わってる」
「ふふ、いい感じでしょ? イケメン風!」
「“風”か……まあ、ありがとな」
「お、ちゃんと素直に言えるようになってきたじゃん。これぞ進化!」
陽菜は満足そうに笑った。
その笑顔は、無邪気で、どこか懐かしくて――僕の胸の奥に、ほんの少しだけ火を灯した。
⸻
その夜。
風呂上がりに、鏡の前で髪を整える自分に違和感を覚えた。
でも、悪くなかった。
「……ありがとう、陽菜」
小さな声でつぶやいて、電気を消した。