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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第2部 崩壊の序曲
9/33

最初の断絶


月が滲む夜だった。

アパートの外灯はぼやけて、薄い霧のような空気が辺りを包んでいた。

その中で、一色勝はひとり、じっと立っていた。


その視線の先にいるのは、星見えり――ではない。

彼女と親しげに談笑する、ひとりの男子学生。

渡部。勝と同じ学部、同じゼミ。何度か話したこともある。


「まじで、えりちゃんって不思議なとこあるよね。笑った顔、見てるだけで癒されるし」


「またそういうこと言って……ほんと、渡部くんって軽いよね?」


えりの声が笑いに混じる。勝の知る「えり」の声。だが、それを奪われるかのようなその光景は、ただひたすらに、勝の中を黒く塗り潰していった。


ふたりは大学の裏手にある小さな公園で向かい合っていた。夜のゼミ帰り、他のメンバーとは違う帰り道を選んだふたりの行動を、勝は偶然装って尾けていた。


――たまたまかもしれない。


最初はそう思おうとした。

えりの笑顔を否定したくなくて。

だが、渡部がえりの腕にそっと触れた、その一瞬で勝の中の何かが、はっきりと音を立てて壊れた。


脳裏に、えりと手が触れた日の感覚が蘇る。

あの一瞬だけで、世界が輝いて見えたのに。

どうして――どうして、その手が、他人に触れられている?


その夜、勝は眠らなかった。


彼のノートパソコンには渡部のSNS、大学のサークル情報、過去のツイート履歴までがすでにブックマークされていた。

実家の場所、通学路、よく行くバイト先――完璧だった。


それから三日後、渡部は“事故”に遭った。

人気のない夜道、後ろから頭部を強打された。

財布もスマホも無事だったが、防犯カメラの死角での犯行だった。犯人はいまだ見つかっていない。


ニュースを見ながら、勝は白湯を飲んでいた。

テレビから聞こえるアナウンサーの冷たい声と、湯呑みから立ち昇る湯気だけが、部屋の静けさを彩っていた。


何も感じなかった。罪悪感も、恐怖も。

あるのはただ――これで、また一歩、えりに近づいたという実感。


次の日。ゼミの空気は少し重く、数人が渡部について話していた。


「やばいよね……大学来る途中だったんでしょ?」


「まさかあの道で……あそこ、暗いしな」


勝は沈黙を守る。話を聞くだけの傍観者。だが、耳はえりの声を探していた。

彼女は、心なしか俯き加減で座っていた。黙ったまま。勝の方は一度も見ない。


「……まさか、ね」


えりが小さく呟いた。その声の意味を、誰も拾わなかった。勝以外は。


――何を“まさか”と思った?

――もしかして、気づいてる?


勝は一瞬、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

だが同時に、その“予感”さえも甘美に思えた。

この恋の形が、少しずつ捩じれていくのなら、それでも構わない。


むしろその歪みこそが、自分たちを結びつける唯一の鎖になる――。


勝は、笑みを浮かべた。


その視線の先で、星見えりがふと顔を上げた。

どこか遠くを見つめるような眼差しで。


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