最初の断絶
月が滲む夜だった。
アパートの外灯はぼやけて、薄い霧のような空気が辺りを包んでいた。
その中で、一色勝はひとり、じっと立っていた。
その視線の先にいるのは、星見えり――ではない。
彼女と親しげに談笑する、ひとりの男子学生。
渡部。勝と同じ学部、同じゼミ。何度か話したこともある。
「まじで、えりちゃんって不思議なとこあるよね。笑った顔、見てるだけで癒されるし」
「またそういうこと言って……ほんと、渡部くんって軽いよね?」
えりの声が笑いに混じる。勝の知る「えり」の声。だが、それを奪われるかのようなその光景は、ただひたすらに、勝の中を黒く塗り潰していった。
ふたりは大学の裏手にある小さな公園で向かい合っていた。夜のゼミ帰り、他のメンバーとは違う帰り道を選んだふたりの行動を、勝は偶然装って尾けていた。
――たまたまかもしれない。
最初はそう思おうとした。
えりの笑顔を否定したくなくて。
だが、渡部がえりの腕にそっと触れた、その一瞬で勝の中の何かが、はっきりと音を立てて壊れた。
脳裏に、えりと手が触れた日の感覚が蘇る。
あの一瞬だけで、世界が輝いて見えたのに。
どうして――どうして、その手が、他人に触れられている?
その夜、勝は眠らなかった。
彼のノートパソコンには渡部のSNS、大学のサークル情報、過去のツイート履歴までがすでにブックマークされていた。
実家の場所、通学路、よく行くバイト先――完璧だった。
それから三日後、渡部は“事故”に遭った。
人気のない夜道、後ろから頭部を強打された。
財布もスマホも無事だったが、防犯カメラの死角での犯行だった。犯人はいまだ見つかっていない。
ニュースを見ながら、勝は白湯を飲んでいた。
テレビから聞こえるアナウンサーの冷たい声と、湯呑みから立ち昇る湯気だけが、部屋の静けさを彩っていた。
何も感じなかった。罪悪感も、恐怖も。
あるのはただ――これで、また一歩、えりに近づいたという実感。
次の日。ゼミの空気は少し重く、数人が渡部について話していた。
「やばいよね……大学来る途中だったんでしょ?」
「まさかあの道で……あそこ、暗いしな」
勝は沈黙を守る。話を聞くだけの傍観者。だが、耳はえりの声を探していた。
彼女は、心なしか俯き加減で座っていた。黙ったまま。勝の方は一度も見ない。
「……まさか、ね」
えりが小さく呟いた。その声の意味を、誰も拾わなかった。勝以外は。
――何を“まさか”と思った?
――もしかして、気づいてる?
勝は一瞬、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
だが同時に、その“予感”さえも甘美に思えた。
この恋の形が、少しずつ捩じれていくのなら、それでも構わない。
むしろその歪みこそが、自分たちを結びつける唯一の鎖になる――。
勝は、笑みを浮かべた。
その視線の先で、星見えりがふと顔を上げた。
どこか遠くを見つめるような眼差しで。




