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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第1部 再会の渇望 
8/33

影落つ視線


 五月の初め、キャンパスに吹く風が柔らかさを増すなかで、一色勝の歩調は妙に重たかった。講義が終わり、何気なく向かった中庭のベンチ。いつものように、そこに彼女――星見えりがいればいい、ただそれだけだった。


 しかし、その日彼女はひとりではなかった。


 斜めの位置から見えるベンチ。えりは、ひとりの男子学生と並んで座っていた。経済学部の、名前は確か……渡部悠斗。柔らかな物腰と要領の良さで、どのグループにもすぐ馴染むようなタイプ。


 えりは笑っていた。勝がまだ一度も見たことのない、屈託のない笑顔で。肩を揺らしながら、小さく拍手すらしていた。渡部がなにか冗談でも言ったのだろう。まるでずっと前からの友達のように、ごく自然な距離感。


 ――えりは、あんな顔を自分には見せてくれたことがない。


 勝の足が止まった。ベンチから見えない位置で、細く深く息を吸い込む。拳を握ったことにも気づかない。頭の中で音が遠ざかっていく。木々のざわめきも、人々の話し声も、すべてが背景に溶けていった。


 目の前にあるのは、笑う彼女と、隣にいる“他人”だけ。


(なんで、あいつなんだ……)


 そう思った瞬間、胸の奥で何かがひび割れた。


 渡部の笑顔が視界の中で異様に肥大化する。えりの笑顔の原因が、勝ではなく“そいつ”であるという事実が、爪を立てるように脳をかきむしった。


(俺は……ずっと……)


 その手のために爪を磨き、えりに釣り合うために筋肉を整え、りえと一緒にコーディネートを研究して、何年も何年も準備してきた。


 それなのに、えりの隣にいるのは、何の努力もしていない、何も知らない他人だ。


 ――なにかがおかしい。

 ――なにかが、間違っている。

 ――この世の理が、ねじれている。


 喉の奥が焼けつくように熱い。目の裏がじわりと痛む。勝は、ゆっくりと踵を返した。


 そのまま、足早に建物の影へと身を滑らせる。表情はいつも通り、だが目の奥には、暗い炎が灯っていた。


(いっそ、いなければいいのかもしれない。彼女の隣に“いるべきじゃない人間”が、いなければ……)


 その考えが浮かんだとき、不思議と心は静かだった。凪のような冷たい静けさ。

 何もかもが、ようやく、整う気がした。


 *


 その夜。

 寮の自室でベッドに仰向けになりながら、勝は天井を見つめていた。

 目を閉じれば、昼間の光景がまぶたに焼きついて離れない。彼女の笑顔、隣の男、ふたりの距離感。


 ゆっくりと手のひらを開いてみる。

 そこにはもう、何の温もりもないはずだった。それでも勝は、まるで幻肢のように“えりの手”の感触を思い出す。


(俺だけが、触れていいんだ……)


 そう確信するように、勝はそっと拳を握りしめた。

 彼女の笑顔を奪う者、時間を奪う者、視線を向けさせる者――

 すべて、消えてしまえばいい。


 静かに、しかし確実に、「殺意」という名の感情が、芽を出した。

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