影落つ視線
五月の初め、キャンパスに吹く風が柔らかさを増すなかで、一色勝の歩調は妙に重たかった。講義が終わり、何気なく向かった中庭のベンチ。いつものように、そこに彼女――星見えりがいればいい、ただそれだけだった。
しかし、その日彼女はひとりではなかった。
斜めの位置から見えるベンチ。えりは、ひとりの男子学生と並んで座っていた。経済学部の、名前は確か……渡部悠斗。柔らかな物腰と要領の良さで、どのグループにもすぐ馴染むようなタイプ。
えりは笑っていた。勝がまだ一度も見たことのない、屈託のない笑顔で。肩を揺らしながら、小さく拍手すらしていた。渡部がなにか冗談でも言ったのだろう。まるでずっと前からの友達のように、ごく自然な距離感。
――えりは、あんな顔を自分には見せてくれたことがない。
勝の足が止まった。ベンチから見えない位置で、細く深く息を吸い込む。拳を握ったことにも気づかない。頭の中で音が遠ざかっていく。木々のざわめきも、人々の話し声も、すべてが背景に溶けていった。
目の前にあるのは、笑う彼女と、隣にいる“他人”だけ。
(なんで、あいつなんだ……)
そう思った瞬間、胸の奥で何かがひび割れた。
渡部の笑顔が視界の中で異様に肥大化する。えりの笑顔の原因が、勝ではなく“そいつ”であるという事実が、爪を立てるように脳をかきむしった。
(俺は……ずっと……)
その手のために爪を磨き、えりに釣り合うために筋肉を整え、りえと一緒にコーディネートを研究して、何年も何年も準備してきた。
それなのに、えりの隣にいるのは、何の努力もしていない、何も知らない他人だ。
――なにかがおかしい。
――なにかが、間違っている。
――この世の理が、ねじれている。
喉の奥が焼けつくように熱い。目の裏がじわりと痛む。勝は、ゆっくりと踵を返した。
そのまま、足早に建物の影へと身を滑らせる。表情はいつも通り、だが目の奥には、暗い炎が灯っていた。
(いっそ、いなければいいのかもしれない。彼女の隣に“いるべきじゃない人間”が、いなければ……)
その考えが浮かんだとき、不思議と心は静かだった。凪のような冷たい静けさ。
何もかもが、ようやく、整う気がした。
*
その夜。
寮の自室でベッドに仰向けになりながら、勝は天井を見つめていた。
目を閉じれば、昼間の光景がまぶたに焼きついて離れない。彼女の笑顔、隣の男、ふたりの距離感。
ゆっくりと手のひらを開いてみる。
そこにはもう、何の温もりもないはずだった。それでも勝は、まるで幻肢のように“えりの手”の感触を思い出す。
(俺だけが、触れていいんだ……)
そう確信するように、勝はそっと拳を握りしめた。
彼女の笑顔を奪う者、時間を奪う者、視線を向けさせる者――
すべて、消えてしまえばいい。
静かに、しかし確実に、「殺意」という名の感情が、芽を出した。




