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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第1部 再会の渇望 
7/33

焦がれる指先


 四月の終わり。キャンパスの中庭は、若葉と陽光に包まれていた。昼休み、教室を抜け出した一色勝は、星見えりの姿を探して歩いていた。偶然を装うための計算された軌道。その努力は実を結び、木陰のベンチに腰掛けている彼女を見つける。


 スマホを眺めていたえりが顔を上げ、軽く手を振った。


「一色くん、こんにちは」


 その一言だけで、胸の奥が跳ねる。勝はなるべく平静を装って隣に腰を下ろした。


「お昼、ここで食べてたの?」


「うん、混んでたから……ここだと静かだし」


 えりの指先が紙パックのジュースに触れる。その動作にさえ勝の視線は吸い寄せられる。指が細くて、爪が短くて、清潔感があって、肌が白くて。思い描いていた通りの、理想の手。


「そっちのゼミ、どう? 進んでる?」


「まあ……ぼちぼちかな」


 そんな他愛のない会話が、勝には宝物のように感じられる。話すたび、えりの目が自分を見てくれるたび、確かにここに存在していると実感できた。


 彼女がバッグの中を探り、落としたペンを拾おうと手を伸ばした。そのとき――


 ふいに、えりの手の甲が勝の手の甲に触れた。


 ――ほんの一瞬だった。


 なのに、その触れた箇所がじん、と熱くなった。そこだけ別の時空にでもあるかのように、鼓動が跳ね上がる。勝の頭の中で時間が止まり、空気の密度が変わったようにさえ感じた。


 えりは何事もなかったかのように「ごめんね」と言ってペンを拾い、すぐに手を引いた。


「……!」


 勝はその瞬間、言葉にならない衝動を飲み込んだ。


 触れただけで、こんなにも世界が明るくなるなんて。今にもこの身がほどけてしまいそうな、甘い錯覚。ああ、なんて柔らかかった。あたたかかった。いまでも手のひらに、彼女の温度が残っている気がした。


(このまま、もう一度、触れたい……)


 そう思ったときには、えりはもう立ち上がっていた。


「じゃあ、またね」


 ひらりと手を振り、えりは中庭を後にする。彼女の後ろ姿が日差しの向こうに消えていくまで、勝はただ茫然と見送った。


 *


 夜、部屋に戻った勝は、机の上に置かれたあるノートを開いた。大学入学後から記録している「星見えり観察記録帳」。その日彼女が発した言葉、表情、服装、話題、香り……すべてが書き留められている。


 そこに今日の出来事も記したあと、ふと、ある記憶が浮かんだ。


 *


 高校二年の夏。制服の半袖から出た腕を、塩見りえがじっと見ていた。


「勝って、手……綺麗だね」


 そう言って、そっと指先で触れてきた。


 不意打ちだった勝は、肩をすくめて「男で手が綺麗ってどうなんだろうな」と笑った。すると、りえは少しだけ悲しそうな顔をしてから、笑顔に戻った。


「いいと思うよ。ちゃんと、努力してきたって感じする」


 言われてみれば、爪も形も、筋肉のつき方も、彼女が教えてくれた通りにケアしてきた。毎日ハンドクリームを塗れと言われたし、甘皮の処理も一緒にしてくれた。


 だけどそのときの勝は、それを「自分が変わるため」の手段としか思っていなかった。りえの言葉の奥にある温度には、気づけなかった。


(あのとき、あいつの指が触れた感触も、こうだったのか……)


 記憶の中のりえの笑顔が、ゆっくりと遠ざかっていく。そして現実の手のひらには、えりの温もりだけが残っていた。


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