30/33
数年後の静かさ
高い塀に囲まれた施設の中庭には、ひとつだけ季節を問わず白く咲き続ける花がある。
イベリス。
その名を誰かに教えたことはない。けれど、女は毎朝、そこに水を与え、静かに手入れを続けていた。
「塩見」と名を呼べば、彼女はただ静かに振り返る。
控えめな微笑みを浮かべて、また花に視線を戻すだけだ。
看守の誰もが口にする。「あの人は、穏やかだ」と。
他人と深くは交わらないが、誰にも礼を欠かさず、どこか遠いところを見ているような目をしている。
ある日、ふと風が吹き抜け、花びらが一枚、彼女の手のひらに舞い落ちた。
白い、小さな、儚いかけら。
女はそっと目を伏せ、胸元に手を当てた。そこには、もうペンダントはない。
けれど、失くしたとは思っていなかった。ただ、閉じたのだ。すべてを、静かに。
(もう、誰かになろうとは思わない。
ただ、私は私でいる)
それだけで、いまは十分だった。
白い花が揺れる。
誰にも気づかれないように、そっと、そっと咲き続けていた。




