白い花の咲く庭で
護送車の窓の外は、春の光にかすかに揺れていた。
ゆっくりと走る車体の振動が、まるで心臓の鼓動のように微かに胸を揺らす。
手首には、再び冷たい金属の感触。
けれど、もう痛みはなかった。
それは過去と自分をつなぐ、最後の“印”のように思えた。
窓の外に、白い花が咲いていた。
一瞬だった。
車の振動と共に通り過ぎる道端、雑草に混じるようにして、小さな白い花。
名前は……もう思い出せない。
けれど、それが“イベリス”であることだけは、確かだった。
──あの日、彼と見た花。
──“誰か”になりたかった、すべての始まり。
胸に手を当てる。
もう、ペンダントはそこにはなかった。
けれど、不思議と何かが残っているような気がした。
それは重さでもなく、痛みでもない。
ただ、形のない“記憶”だった。
「……あれは、初恋だった」
声にはならなかった言葉が、心の底で静かに灯る。
「たしかに、初恋だったのだ」
名前も、顔も、知らないままに恋をして、
その恋が、すべてを壊して、
それでも、最後まで愛し続けた。
誰でもない自分が、誰かになろうとして、
そして何者にもなれなかった物語。
それが、塩見りえの生きた証。
春の風が一陣、窓の隙間から吹き抜けた気がした。
もう感じるはずのないその風が、ただ一輪の白い花を揺らすように、静かに彼女の心を撫でた。
護送車は静かに曲がり、視界から白い花は消えていった。
だが、それは胸の奥に確かに咲き続けている。
塩見りえが、初めて自分として生きた、ほんのひとときのように。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
物語としてはここで完結なのですが、追加のエピローグを明日以降投稿しますので、興味がある方はもう少しだけ付き合ってくださると幸いです。




