誰でもない私へ
雨は、まだ止まない。
冷たいしずくが頬を伝う。けれど、それが涙か雨粒かは、もうわからなかった。
りえはただ、勝の身体を抱きしめたまま、地面に膝をついて座り込んでいた。
その腕の中で、彼の体温は静かに失われていく。けれど、いまはまだ温もりが残っていた。
彼女は、自分で警察に電話をかけた。手が震えていたから、うまく番号が押せなかった。
「……殺しました」
震える声でそう言ったのは、ほんの数分前のことだ。
それから何も考えていない。
逃げようとは思わなかった。捕まることも、怖くはなかった。
ただ、ひとつの夢が終わったということだけを、体の奥でひりひりと感じていた。
遠くから、パトカーのサイレンが響いていた。どんどん近づいてくるのがわかる。
だけど、それはまるで、遠いどこか別の世界の音のようだった。
りえは、勝の胸元にそっと顔をうずめた。
そして、自分の胸にぶら下がるペンダントを、そっと握る。
あの日、自分に誓った言葉があった。
――この鍵がある限り、私は“りえ”を忘れない。
血の付いた鍵の先端が、指に痛みを与える。
それでも彼女は、しっかりとそれを包み込んだ。
この鍵は、“星見えり”になるための願いであり、同時に“塩見りえ”としての記憶でもあった。
彼とのあの日のツーショット。カメラのレンズ越しに笑ってくれた顔。
選んでくれたシュシュ。ささいな贈り物に、どれだけ心が満たされたか。
そして――彼の手。
細くて綺麗だった。けれど、近くで見ると、ペンだこや擦り傷が無数にあって、努力の跡が刻まれていた。
その手を、好きになった。
その人を、好きになった。
彼の隣にいるために、彼に振り向いてもらうために。
自分を偽った。姿を変えた。声を変えた。
自分ではない“誰か”になろうと、必死だった。
だけど――その“誰か”には、結局なれなかった。
「……私は、誰でもなかったんだね」
言葉は、息のように静かに漏れた。
星見えりには、なれなかった。
塩見りえとしても、生きてはいけなかった。
けれど、その時間が全部、幻だったとは思いたくない。
あの瞬間の彼の笑顔も、かけてくれた優しい言葉も。
本当だった。たとえ、勘違いだったとしても。たとえ、夢の中のことだとしても。
彼と過ごした季節は、確かにりえの中に残っている。
「罰として……私は、りえとして終わる」
それでいいと、思えた。
もう、誰かにならなくていい。誰かになろうとしなくていい。
たったひとりの“私”として、すべてを終える。
サイレンの音が目前に迫る。パトカーのライトが、雨に濡れたアスファルトに反射して揺れている。
りえはゆっくりと、勝の身体から手を離した。
立ち上がることはできなかった。膝の力が入らない。
けれど、彼女は震える手を、ゆっくりと空に向けて上げた。
「ここにいます」と、誰かに届くように。
胸に下がったペンダントは、まだそこにあった。
けれど、その重さは以前とは違って感じられた。
それは、夢の名残。愛の痕跡。
そして――彼女自身が選び取った、罰の象徴だった。




