終焉の涙
世界が、少しずつ滲んでいく。
勝の視界は、まるで水の底にいるようにぼやけていた。雨はまだ降っているはずなのに、耳に届くのは遠く、白いざわめきだけ。身体のどこが痛いのかも、もうわからなかった。ただ、胸のあたりから温かいものが流れ出していて、それが自分の命だということだけが、妙に確かな感覚として残っていた。
「……まさる……くん……っ」
呼ばれている声がする。すぐ近くなのに、遠い。震えていた。泣いていた。
誰が――と思った時、彼の目の前に揺れる金色の何かがあった。雨に濡れて、血に濡れて、それでもかすかに光っている。
ペンダントだった。
見覚えが、ある。けれど、思い出せない。
その時だった。歪んだ視界の中、その小さな飾りに映った“誰か”が、ふいに輪郭を持って現れた。
……そこにいたのは、中学の頃の少女だった。
制服の襟を指先で弄びながら、上目遣いにこちらを見上げていた。髪はぼさぼさで、目元には影があり、それでも懸命に笑おうとしていた。
「ありがとう、って……言いたかっただけ、だから」
あの時、校舎の裏で泣いていた彼女。誰にも見向きもされなかった“塩見りえ”。
それが――どうして、今ここに。
違う。ここじゃない。ここは、罰の場所だ。彼女がいるはずなんか、ない。
それでも、ペンダントの中の彼女は、笑っていた。何も知らない少女のままで、まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように。
勝の喉が微かに震える。声にならない声が、唇の隙間からこぼれた。
「……イベリス……」
それは、彼の最期の言葉だった。
ペンダントが手から滑り落ち、石畳に軽く当たって鈍い音を立てた。
その瞬間――りえが、崩れるように勝の身体を抱きしめた。
「まさる……くん……まさ、るくん……っ……!」
声にならない叫びが、雨に混ざって響く。咽び泣く声は途切れ、また震え、何度も同じ名を呼び続けた。掠れた喉を通るその名は、もはや祈りにも似ていた。
勝の胸に顔を埋めながら、りえは嗚咽を漏らし続けた。揺れる身体、熱い涙。震える指先で、彼の手を探すように握る。
やがて、少しずつ言葉が、空気の中に戻ってくる。
「……愛してた……よ、ずっと……」
その言葉は、小さく、震えていた。けれど、どこまでも確かだった。
「私が誰でも……あなたが忘れても……それでも、私は……あなただけを……」
雨はまだ止まない。
けれどその中で、りえの涙だけがはっきりと地面を濡らしていた。
風が少し吹いた。乱れた髪が揺れ、ペンダントの鎖が音を立てた。
そしてりえは、勝の冷たくなりかけた手を胸に抱きながら、もう一度、深く息を吸った。
もう言葉は出なかった。語るべきことはすべて、涙が語っていたから。
ふたりの罰は、もう終わった。
そして、幻想の中に咲いた一輪の花だけが――この夜に、取り残されていた。




