罰
雨が、まだ降っていた。
止むことを忘れたように、ただ冷たく、ただ静かに。
りえの前に立つ勝の目は、もはや彼女を見ていなかった。
「……全部、お前のせいだ」
掠れた声だった。
けれど、次の瞬間、喉の奥からせり上がるような怒号が、雨音を裂いた。
「お前が全部……奪ったんだ!」
その声は、幼さすら滲ませていた。
愛して、信じて、寄りかかって――その末に裏切られた少年の叫びだった。
「“えり”も……記憶も……俺の気持ちも、お前が……!」
言葉の途中で、勝の手がポケットへと潜った。
見慣れない黒い金属が、濡れた空気の中で不穏な光を放つ。
折りたたみナイフ。
刃が展開される音が、やけに大きく響いた。
りえの目は、刃ではなく、そのナイフを握る勝の手を見つめていた。
それは、震えていた。
怒りではない。憎しみでもない。
それは、恐怖と、自責と、どうしようもない喪失の震えだった。
「……勝くん」
りえは、そっと胸元に手を伸ばした。
ペンダントを握りしめる。
鍵の形をしたそれの先端は、月を失った空のように鈍く光っていた。
「これが……“本当の私”だよ」
彼女の声は、もう震えていなかった。
その瞳には、たしかな覚悟が宿っていた。
勝の怒りも、絶望も、迷いも――全てを受け止めようとするように。
しかし勝は、それを拒絶するかのように叫んだ。
「違う……違うっ!お前なんか知らない!俺は、“えり”が――!」
その言葉に、りえの瞳が微かに揺れた。
口元が、哀しげに歪む。
「そうだよね……勝くんは、えりしか見てなかった」
彼女の指が、ペンダントを強く握った。
そして、次の瞬間――
「でも、勝くんに……そんなこと、させたくなかったの」
一歩。
もう一歩。
りえは、勝へと歩み寄る。
雨が、二人の距離を打つように落ちてくる。
勝が刃を振り上げかけた、その刹那。
りえはその胸元から、鍵のペンダントを引き抜いた。
そして――その鋭利な先端を、迷いなく、勝の首元へ突き立てた。
鋭く、小さな音。
だが、その直後に起きたことは、あまりにも大きすぎた。
ぴしゃり、と。
雨粒と同じ音がして、勝の首から、赤が噴き出した。
それは瞬く間に彼のシャツを染め、りえの腕を濡らし、服の袖から彼女の胸元へ、頬へ、滴っていった。
鮮烈な赤。
あのとき、血はペンダントにしか付着しなかった。
彼女の手も、服も、なにも濡れなかった。
りえは、それを「奇跡」だと思った。
えりがすべてを許して、彼女の中に溶けていったのだと、思い込むようにした。
だが、今は違う。
「……っ……!」
勝が崩れ落ちるように、りえの肩へ寄りかかる。
りえはその体を、しっかりと受け止めた。
勝の重み。体温。痛み。流れる血。
どれも、現実だった。
抗いようのない、現実だった。
「これでよかったんだよね……勝くん」
呟く声は、雨に溶けそうだった。
その目からは、次から次へと涙があふれていた。
震える肩。濡れた髪。血に染まった腕。
りえは、そのすべてを、受け入れていた。
「これで……“えり”は、勝くんの中で、綺麗なまま終われるよ……」
抱きしめる力が、少しだけ強くなった。
指先が、未だぬくもりを宿すその身体に、最後の祈りを込めるように。
そして――
りえは、それを「罰」だと思った。
彼のために犯した罪。
彼のために壊した心。
彼のために選んだ終わり。
そのすべてが、自らに返ってくるような痛みだった。
だからこそ、それは、罰だった。
誰にも赦されない、ふたりだけの罰。
愛ゆえの、終わらせ方だった。
――雨は、まだ、降り続いていた。




