沈む星
涙に濡れた頬を隠すように、彼女──いや、“りえ”は顔を伏せていた。
勝の視線は、その肩の震えに釘付けだった。見えているはずのものが、わからなくなる。目の前にいるのは確かに「星見えり」で──それなのに、脳裏には、別の名前がこだまする。
塩見りえ。
あの名前が、忘れかけていた記憶の断片とともに、じわじわと輪郭を取り戻していく。
「……なんで、泣いてるんだよ」
震える声が、宙に溶けた。
問いは答えを求めていたのではない。誰よりも、自分自身に投げかけていた。
目の前の少女の涙は、あまりにも“本物”で、壊れそうで、苦しくなるほど綺麗だった。
だがその美しさこそが、恐ろしかった。
自分がこれまで信じてきたすべてを、覆そうとしているから。
「私は……」
ようやく顔を上げた彼女の瞳には、濡れた星が浮かんでいた。
その輝きはどこか遠くの夜空を思わせる──手を伸ばせば掴めそうで、なのに届かない。
「ずっと……あなたの隣にいたかったの。どんな姿でも、どんな名前でもいいって思ってた」
その声は、えりではなかった。
けれど、りえでもなかった。
──仮面を脱いだ、誰かだった。
「でも、いくら姿を変えても、心のどこかにいたの。昔の私が……、消えないまま、ずっと」
彼女はそっと胸元に手を伸ばす。
勝は無意識に後ずさった。
カチ、と小さな音がして、細い鎖の先が揺れた。
ペンダント──金色の、鍵の形をしたそれが、静かに揺れていた。
「……見て」
それは、差し出す手ではなく、“差し戻す”ような所作だった。
まるで「これがすべてだった」と告げるように。
「これが、私。私の……本当の気持ち。名前じゃなくて、顔でもなくて──あなたを好きだった気持ちだけが、私を私にしてくれたの」
勝の瞳に映る鍵が、ゆらゆらと揺れる。
そのたびに、胸の奥がざわつく。
──見たことがある。
けれど、その記憶に触れた瞬間、頭の奥が警鐘を鳴らすように痛んだ。
「やめろ」
勝はその言葉を、反射的に吐き出していた。
「それを、見せるな。言うな。お前は……そんなの、じゃない」
りえの手が、かすかに震える。
けれど、彼女は笑った。どこか空っぽな微笑みだった。
「そうだよね。私も、ずっとそう思ってた。見せたら、壊れちゃうって。だからずっと隠してた」
勝の胸が、張り裂けそうだった。
「でもね、勝くん。私の中では、あなたといた日々だけが、夢じゃなかったの。たとえ全部が嘘だったとしても、この鍵がある限り、私の愛は夢じゃない」
言い終えると、彼女はそっとペンダントを胸に戻した。
まるで、傷口を押さえるように。
「私が誰かなんて、どうでもよかった。あなたが、私を見てくれていた。それだけが、すべてだったの」
その言葉を、勝は受け止めきれなかった。
彼女が泣いていたことも、笑っていたことも、すべてが「りえ」のものだと認めてしまえば──自分の世界が壊れる。
「……黙れ」
声が、掠れていた。
「……やめてくれ」
震える手が、自分の髪をかきむしる。
崩れ落ちそうな自我を、なんとか支えようとしていた。
彼女はただ、静かに微笑んでいた。
その微笑みは、救いのようで、呪いのようでもあった。




