イベリスの嘘
柔らかな春の光がカーテン越しに差し込む部屋で、塩見りえは鏡に向かっていた。
鏡の中に映るのは、完璧な“星見えり”の顔。
整った眉の曲線、口元の形、笑う時の目元──
すべてが“彼の記憶の中のえり”と、寸分違わぬように調整された顔だった。
それでも。
どれほど精巧に模倣しても、拭えない“違和”は、自分自身が一番よく分かっていた。
りえはゆっくりとペンダントを握りしめた。
金色の小さな鍵。いつの間にか、その根元には赤黒い染みがこびりついている。
もう乾いていた。だけど、ふとした拍子に、その色が呼び起こす“夜”がある。
──彼女と、最後に言葉を交わしたあの夜。
星見えりは笑っていた。
けれど、その笑顔の中にあった微かな違和感に、りえは気づいていた。
「勝くん、君のこと、まだ想ってるの?」
りえが問うと、えりはほんの少しだけ目を伏せて、「うん」と頷いた。
「──なら、私がもらうね」
その言葉に、えりは驚いたように目を見開いた。
りえは、ただ静かに笑っていた。手の中に、このペンダントを隠して。
その後の記憶は、霞がかかったように曖昧だった。
悲鳴はなかった。ただ、あたりに咲いていたイベリスの花が、不意に風に散った記憶だけが残っている。
血は、ペンダントにだけ付着していた。
他には、なにも残さなかった。
りえは、それを「奇跡」だと思った。
えりがすべてを許して、彼女の中に溶けていったのだと、思い込むようにした。
──「イベリス」
それは、花言葉で「思いやり」や「心を引きつける」。
けれどもうひとつ、“無邪気”という意味があると知ったとき、りえは静かに笑った。
「無邪気に彼を奪いたかったんだよ、私は」
声に出すと、胸の奥が痛んだ。
でも、止める術はもうなかった。
整った顔で笑いながら、りえは立ち上がる。
“星見えり”として生きる自分。
“塩見りえ”として犯した罪。
どちらも、このペンダントがすべて知っている。
「今度こそ、彼の隣に立つ」
胸に抱いた鍵に、そっと口づけを落とした。
春の風が、部屋の窓を揺らす。
イベリスの鉢植えがカーテンの向こうで小さく揺れた。
──それは、すべてが始まる前。
たった一度きり、りえの心が満たされた“幸福な日々”へと、記憶が静かに降りていく合図だった。




