仮面の下で
教室の片隅。埃の舞う光が机の上に淡く落ちていた。 塩見りえは、また今日も、誰とも目を合わせなかった。誰かの視線が、声が、笑い声が、怖かった。
「ねえ、昨日のゲームやった?」「見てよ、このプリント、塩見の机に貼っといてやった」「あはは、マジウケる〜」
笑い声の向こうで、誰かが自分の机に何かを貼る音がした。手が震える。顔を上げられない。誰もいないふりをして、じっと机にうつ伏したまま目を閉じた。
それが、いつから始まったかは分からない。ただ、一度ついた“匂い”のようなものは、どんなに洗っても落ちなかった。声が小さい。地味。無口。気持ち悪い。
そう呼ばれるたび、自分が消えていく気がした。
「……これ、君の?」
ふいに差し出されたプリントの束。視線を上げると、そこに立っていたのは──一色勝だった。
彼の表情は、気負いのない、あまりにも普通の顔。驚いたように自分を見つめているりえに、彼は少しだけ目を細めて言った。
「君の机に貼ってあったから。……イタズラだよね、これ」
その言葉に、なぜか涙が出そうになった。けれど泣いたらもっと“変な子”に思われる気がして、彼女はただ、何度も頷いた。
「ありがとう……」
震える声でそう言ったとき、一色勝は、ごく自然に微笑んだ。
──その瞬間からだった。
彼の姿を、声を、眼差しを、忘れられなくなったのは。
*
その日から、彼はときどきりえに話しかけるようになった。廊下ですれ違った時の小さな会釈。図書室で同じ本に手を伸ばして、譲ってくれた優しさ。保健室に一人でいた時、カーテン越しに「大丈夫?」と囁かれた声。
りえにとって、それは神様がくれた一滴の水だった。
……だが、その“水”の代償はあまりにも大きかった。
次第に、今度は一色勝が標的になった。
「なんで塩見なんかと話すの?」「アイツと仲良くしてると、ウツるよ」「マジで意味わかんない」
最初は軽い悪口だった。だが、いつしかそれは、机を蹴られる音に変わり、ロッカーを荒らされる気配へと変わっていった。
彼が変わることはなかった。ただ、一度だけ、小さく呟いたのを覚えている。
「……君は、気にしなくていいよ」
──それが、どれほど残酷な言葉だったかを、りえは今も忘れない。
気にしなくていい。けれど、自分のせいで彼が傷ついていく。自分と関わったせいで、彼の笑顔が曇っていく。
りえは、それがたまらなかった。
だから。
──だから、決めたのだ。
もう二度と、あの人の笑顔に“私のせい”で影を落とさないと。
そしていつか、彼の前に本当の自分を連れて行けるように、自分を変えようと。
今度は、“彼にふさわしい私”になるために。
その決意の夜。机の引き出しの奥に眠っていた、小さな金色のペンダントを手に取った。
通販の安物で、すぐにメッキも剥がれそうな粗末な鍵。
けれど、それをりえは、真剣な面持ちで自分の首にかけた。
「これは、未来の私への鍵」
小さく、声に出して言った。
いつか──いつか本当の私を見てくれる彼のために。
この鍵が、扉を開く日まで。
りえは涙を拭い、初めて真正面から鏡を見つめた。
そこに映るのは、泣き腫らした目をした少女。
──でも、彼を愛した少女。




