偽物のキス
しとしとと降り続ける雨が、窓を曇らせていた。どれほどの時間が経ったのかも分からない。ただ、濡れた世界の静寂のなかで、二人だけが取り残されたようだった。
小さな部屋に響くのは、雨音と、それに溶けるような心臓の鼓動。勝は椅子に腰かけ、りえ──いや、“えり”──の姿を見つめていた。彼女はベッドの端に座り込み、微動だにしない。手首を縛っていた手錠は、さっき勝が自ら外した。
「もう、逃げられないよ。僕たちは……こうして一緒にいるんだ。永遠に」
声は優しく、けれど狂気を孕んでいた。勝はそう呟くと、そっと手を伸ばし、えりの頬に触れる。その肌はどこまでも冷たく、まるで濡れた空気をそのまま宿しているようだった。
えり──りえは、ゆっくりと顔を上げた。濡れた前髪の下から覗くその瞳に、勝はかすかな戸惑いを感じ取った。だがそれも、一瞬のこと。勝の目には、ただ「好きな人」が映っていた。
「……えり」
囁くように名を呼び、勝は彼女の唇にそっと顔を近づける。雨音が、さらに強くなった気がした。二人の距離が、あとわずかに縮まる。
そのときだった。
「えりじゃない……!」
鋭く、そして震える声が、部屋の空気を一瞬で変えた。
勝の動きが止まる。目の前で、りえが泣いていた。頬を伝う涙は、彼女の両手で握りしめられたペンダントに落ちていく。金色の小さな鍵──それをまるで命綱のように、彼女はぎゅっと握っていた。
「わたし……“えり”なんかじゃないの……っ!」
勝は、まるで背中を殴られたかのように言葉を失った。何を言っている? どうして今そんなことを──。目の前の“彼女”が、何かを否定している。それが、取り返しのつかない真実であるような気がして、呼吸が苦しくなった。
「……やめてよ、冗談でしょ?」
ようやく絞り出した声は、あまりにもか細くて、自分のものではないようだった。
「だって、君は……星見えりで……僕の“えり”で……」
「違う……違うの……っ!」
りえの肩が震える。ペンダントを握る指先に、力がこもる。
勝は、混乱の淵で思考を失いかけながらも、ただ彼女の名前を呼び続けた。いや、名前ですらなかった。自分が信じた“理想の像”を呼び続けていた。
雨は、やまない。
いや、やまないのではなく──二人が閉じこめられた世界には、もう晴れ間など存在しなかった。




