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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第2部 崩壊の序曲
16/33

欲望の檻


 薄曇りの空が、昼の熱を鈍く閉じ込めていた。


 大学の中庭で、えりが男子学生と並んで座っていた。距離は近すぎず、けれど決して遠くはない。


 笑っている。


 あの、柔らかくて、あたたかい声で。


 勝は、視線を逸らせなかった。


 胸の奥で、何かがまた音を立てて砕けた気がした。


(もう、いらないと思ってたのに……)


 殺意など、過去のものだと思っていた。えりが自分の隣に微笑みを見せてくれる。それだけで、救われている気がしていた。


 ――それでも足りない。


 なぜだろう。


 どれだけ言葉を交わしても、どれだけ笑い合っても、彼女の心のすべてを掴めていないと気づいてしまう。


 彼女の目が、あの男の方を見ている。


 それだけで、世界が黒く染まるような気がした。


 気がつけば、勝の指先が震えていた。ポケットの中で、拳を握りしめる。呼吸が早まる。


 思考が、焦げつくような熱に包まれていく。


 ――違う。これは、恋なんかじゃない。


 これはもう、祈りだ。願いだ。執念だ。


 彼女を失うくらいなら――世界を敵に回しても、手に入れたい。


 夕暮れ、キャンパスの裏門で勝はえりを待ち伏せた。少し驚いた顔で彼女は言った。


「勝くん? こんなところでどうしたの?」


「……ちょっと、話したいことがあって」


 その言葉にえりは微笑む。疑いは、まだない。だが、その無防備さが余計に勝の決意を固めた。


「少しだけ、つきあって」


 えりは頷いた。


 連れて行ったのは、小さなアパートの一室。郊外の古びた建物。誰にも知られない、誰にも邪魔されない場所。


「……ここ、なに?」


「僕の部屋じゃない。少し前に借りたんだ。誰にも教えてない」


 えりの眉がわずかに動いた。


 そして、勝は背後でドアを閉め、鍵をかけた。


 重い音が、密室に響く。


「……勝くん?」


 その声に戸惑いが混じった瞬間、勝は振り返って、静かに言った。


「ここで、ずっと一緒にいよう」


 えりの目が大きく見開かれる。


「……冗談、だよね?」


 けれど、勝の目は笑っていなかった。


「冗談じゃない。誰にも邪魔されないところで、僕たちだけで生きていこう。えりの全部を……僕にちょうだい」


 えりが一歩後ずさる。ドアに手をかけようとするが、それはすでに意味をなさない。鍵は勝が持っている。


「どうして……こんなこと」


「わからないよ。自分でも。でも、もう無理だった。あんなふうに、誰かと話してるのを見たら……止められなかった」


 えりの頬が引きつる。けれど、叫びもせず、泣きもせず――代わりに彼女は、なぜかふっと目を伏せた。


「……勝くん、怖いよ」


 その声は震えていた。


 だが、次の瞬間。彼女は微かに微笑んだ。


 諦めとも、受容ともつかない、かすかな笑み。


「でも、なんか……こうなる気がしてた」


 勝はその笑顔に、一瞬、息を飲んだ。


「どうして、そんな顔をするの……?」


「……わかんない。でも、きっと、あなたがこんなふうに私を見てくれるのを、ずっと……」


 言葉はそこで途切れた。えりはそれ以上、何も言わなかった。


 勝は彼女を抱きしめることも、触れることもできず、ただその場に立ち尽くす。


 静かな密室に、二人の呼吸音だけが漂っていた。


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