揺れる輪郭
目が覚めても、彼女のぬくもりは隣にはなかった。
一夜を共に過ごしたわけではない。駅で別れ、帰路についた勝は、その夜ずっと眠れなかった。彼女と交わした言葉を、息づかいを、何度も何度も反芻し続けていた。
あれは、確かに「特別」な夜だった。
それは体ではなく、もっと深いところ――心の奥で、確かに触れ合った時間だった。
次の日、大学でえりと目が合う。彼女はいつもと変わらぬ笑顔を見せた。ただ、その視線がどこか柔らかくなったように思えた。
「おはよう、勝くん」
その何気ない挨拶にさえ、勝の心は揺さぶられる。
もう、戻れないと思った。
彼女が少しでも他の誰かと笑い合うのが、耐えられなくなっていた。
講義中、斜め前の席でえりが男子学生と話している。それだけの光景に、勝の胸はざわつく。内容もわからず、ただ視線を向け合っているというだけで、喉の奥に熱が溜まる。
――なんで、俺じゃないんだ。
なぜ、彼女は自分以外にも微笑むのか。その笑顔が、なぜ他人に向けられるのか。
理解はできなかった。ただ、頭の中で思考が渦を巻き、感情だけが突き動かされていく。
昼休み、廊下でえりとすれ違った男子学生に肩がぶつかる。
「……気をつけろよ」
低く吐き捨てるように言った勝に、相手は「は?」と眉をひそめる。だが、それ以上の揉め事にはならなかった。えりが間に入るようにして、笑顔で場を収めたからだ。
「どうしたの? 勝くん、なんかピリピリしてない?」
彼女は笑っていた。でも、その笑顔の奥にある小さな警戒心に、勝は気づかないふりをした。
「なんでもないよ」
それだけを返すと、えりはしばらく勝の顔をじっと見つめ、それからそっと微笑んだ。
その微笑みに、なぜか安堵した。
ああ、彼女はまだ、俺を怖れてはいない。
なら、もっと踏み込んでもいい。
もっと深く、彼女の心に入り込んでも――
数日後、ふたりはまた大学の帰り道を歩いていた。並んで歩くだけで、勝の世界は満たされる。
「……最近、勝くんが私のこと、すごく見てくるなあって思ってたの」
えりがぽつりと言った。
ドキリとしたが、否定はしなかった。
「ごめん。でも……止められないんだ。えりのことが、好きだから」
返事はなかった。だが、えりはふと、足を止めた。
「私ね、あんまり自分のこと話さないの」
勝はその言葉を待っていた気がした。ようやく、彼女が自分に何かを見せようとしてくれている。そう思えた。
「昔、すごく好きな人がいて。でもその人に、私、何も言えなかったの。何もできなかった」
その語り口はどこか淡々としていて、けれど決して他人事ではなかった。
「後悔してる?」
「……ううん。でもね、その人が、もしもまた目の前に現れてくれたらって。ずっと、願ってた」
勝はえりの横顔を見つめた。
それが誰かを特定するものではなかったとしても――まるで、自分のことを話しているように思えて、胸が熱くなった。
えりは少しだけ前を向いて歩き出し、その背を追うように勝も歩き出す。
歩幅が揃っていく。距離が縮まっていく。
誰にも邪魔させない。誰にも渡さない。
――この愛は、確かに「本物」なのだ。
彼がそう信じる一方で、彼女の表情には、ほんの少しだけ、苦しげな影が落ちていた。




