甘美なる逃避
駅前のロータリーに差しかかったとき、夜風がえりの髪をやさしく揺らした。街灯に照らされて、その輪郭が一瞬だけ幻想のように滲んで見えた。
「……今日は、ありがとうね」
えりがふと立ち止まり、微笑んだ。勝も足を止める。目の前には、自動改札と人々の流れ。いつもの見慣れた風景が、今夜だけはどこか異質に感じられた。
「ううん、こっちこそ。誘ってくれて、嬉しかった」
自分の声が、ひどく上擦って聞こえた。まるで高校生に戻ったみたいだと、勝は少しだけ恥ずかしくなった。
――駅の照明が、えりの頬をほのかに照らす。
それだけのことが、心臓を叩きつけるほどに美しく感じられた。
「……ねえ、勝くん」
「うん?」
「今日……帰りたくないな」
一瞬、時間が止まった気がした。
えりは柔らかい笑みのまま、でもどこか悲しげな目で言った。無邪気なようでいて、どこか懺悔のような響きを含んでいる声だった。
「なにかあったの?」
勝は慎重に言葉を選んだ。だが、内心では高鳴る胸の音が収まらなかった。
えりは首を横に振る。
「別に、なにも。……でも、もう少しだけ、一緒にいたいなって。……ダメ?」
その「もう少しだけ」が、永遠に続けばいいと勝は思った。
「……ダメなわけ、ないよ」
勝がそう言った瞬間、えりの顔にわずかな安堵の色が差した。
夜の街をふたりで歩く。人の少ない夜道、コンビニの灯り、公園のベンチ。たわいもない会話をしながら、時間は静かに流れていった。
えりがふと、「勝くんってさ……昔から変わらないよね」と呟いた。
「え、なにが?」
「なんとなく……ううん、雰囲気? こう、他の男の子とは違うっていうか」
勝は息を飲んだ。えりの言葉の中に、どこか既視感のようなものが混じっていた。
まるで、誰かが昔言ってくれたような――
「そっか。……でも、変わったよ、俺。努力したから」
えりは微笑む。そして小さく、「そうだね、知ってるよ」と呟いた。
なぜ知ってるのか。なぜそんなふうに言うのか。気になったが、勝は問わなかった。
心地よい沈黙が、ふたりの間にあった。
「寒くない?」と勝が聞くと、えりは小さく首を振った。ふと、彼女の指がペンダントを握る仕草が目に留まる。
それは以前から身につけていた、鍵の形をしたアクセサリー。
「それ、いつもつけてるね」
「うん、だいじなもの」
「プレゼント?」
えりは少しだけ目を伏せた。
「……自分で選んだの。昔の約束を、忘れないために」
意味ありげな言葉だった。だが、勝はそれ以上踏み込めなかった。
ただ、その言葉がどこか胸に引っかかりながら、夜は更けていく。
終電が近づき、結局えりは「やっぱり今日は帰る」と言った。けれど、その表情は、出会ったときとはまるで違って見えた。
駅のホームで手を振るえりに、勝は心の中で誓った。
――もう、誰にも渡さない。
欲しいと願った。その手を、心を、存在すべてを。
その夜、勝の執着は、愛という名の仮面を脱ぎ捨て、確かな「鎖」へと変わっていった。




