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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第2部 崩壊の序曲
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甘美なる逃避


 駅前のロータリーに差しかかったとき、夜風がえりの髪をやさしく揺らした。街灯に照らされて、その輪郭が一瞬だけ幻想のように滲んで見えた。


「……今日は、ありがとうね」


 えりがふと立ち止まり、微笑んだ。勝も足を止める。目の前には、自動改札と人々の流れ。いつもの見慣れた風景が、今夜だけはどこか異質に感じられた。


「ううん、こっちこそ。誘ってくれて、嬉しかった」


 自分の声が、ひどく上擦って聞こえた。まるで高校生に戻ったみたいだと、勝は少しだけ恥ずかしくなった。


 ――駅の照明が、えりの頬をほのかに照らす。


 それだけのことが、心臓を叩きつけるほどに美しく感じられた。


「……ねえ、勝くん」


「うん?」


「今日……帰りたくないな」


 一瞬、時間が止まった気がした。


 えりは柔らかい笑みのまま、でもどこか悲しげな目で言った。無邪気なようでいて、どこか懺悔のような響きを含んでいる声だった。


「なにかあったの?」


 勝は慎重に言葉を選んだ。だが、内心では高鳴る胸の音が収まらなかった。


 えりは首を横に振る。


「別に、なにも。……でも、もう少しだけ、一緒にいたいなって。……ダメ?」


 その「もう少しだけ」が、永遠に続けばいいと勝は思った。


「……ダメなわけ、ないよ」


 勝がそう言った瞬間、えりの顔にわずかな安堵の色が差した。


 夜の街をふたりで歩く。人の少ない夜道、コンビニの灯り、公園のベンチ。たわいもない会話をしながら、時間は静かに流れていった。


 えりがふと、「勝くんってさ……昔から変わらないよね」と呟いた。


「え、なにが?」


「なんとなく……ううん、雰囲気? こう、他の男の子とは違うっていうか」


 勝は息を飲んだ。えりの言葉の中に、どこか既視感のようなものが混じっていた。


 まるで、誰かが昔言ってくれたような――


「そっか。……でも、変わったよ、俺。努力したから」


 えりは微笑む。そして小さく、「そうだね、知ってるよ」と呟いた。


 なぜ知ってるのか。なぜそんなふうに言うのか。気になったが、勝は問わなかった。


 心地よい沈黙が、ふたりの間にあった。


「寒くない?」と勝が聞くと、えりは小さく首を振った。ふと、彼女の指がペンダントを握る仕草が目に留まる。


 それは以前から身につけていた、鍵の形をしたアクセサリー。


「それ、いつもつけてるね」


「うん、だいじなもの」


「プレゼント?」


 えりは少しだけ目を伏せた。


「……自分で選んだの。昔の約束を、忘れないために」


 意味ありげな言葉だった。だが、勝はそれ以上踏み込めなかった。


 ただ、その言葉がどこか胸に引っかかりながら、夜は更けていく。


 終電が近づき、結局えりは「やっぱり今日は帰る」と言った。けれど、その表情は、出会ったときとはまるで違って見えた。


 駅のホームで手を振るえりに、勝は心の中で誓った。


 ――もう、誰にも渡さない。


 欲しいと願った。その手を、心を、存在すべてを。


 その夜、勝の執着は、愛という名の仮面を脱ぎ捨て、確かな「鎖」へと変わっていった。


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