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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第2部 崩壊の序曲
13/33

微笑みの向こう


六月に入ったばかりの風は、雨の匂いを含んで肌をなぞるように吹き抜けていく。

講義の終わった夕暮れ、校舎の出口でスマホを見ていた勝のもとに、あの声が届いた。


「ねえ、一色くん。今日、このあと……よかったら、ご飯、行かない?」


その言葉が現実のものだと理解するまでに、勝は数秒の時を要した。

何度も夢に見た場面。何度も空想で繰り返した“理想”。

それが、とうとう現実のものとして彼に与えられた。


「……え、本当に? 俺でいいの?」


「うん、なんとなく……今日は、一色くんと話したいなって思っただけ」


えりは無邪気に笑った。どこか飄々としたその態度に、いつもの距離感が滲んでいる。

それでも、今は“2人きり”という現実だけで十分だった。



駅前のビルにある、小さなイタリアンバル。

キャンドルライトがほのかに灯り、静かなジャズが流れている。


勝とえりは向かい合って座っていた。

店員が運んできた前菜の盛り合わせを前に、勝の心臓は高鳴りを抑えきれなかった。


「こんな店……よく知ってるね」


「えっと、前に友達と来たことがあって、雰囲気がよかったから……」


「ふーん。ちょっと意外。あんまり、こういうとこ行かなそうなイメージだった」


えりはワインを一口飲みながら、じっと勝の目を見た。

その視線は、どこか試すような、あるいは確かめるような色を帯びていた。


勝はその目に射抜かれたまま、笑顔を返すしかなかった。


「一色くんって、いつも真面目だよね。だけど、こうしてると……なんだろ、なんか懐かしい感じする」


「懐かしい?」


「うん。……前にも、こんな風に話したことあった気がする。もっと前に」


その言葉に、勝は一瞬だけ眉を寄せた。

だが、それ以上深く考える余裕はなかった。

目の前にいるのは、彼が手に入れたかった星見えりであり、今、その“奇跡”が起きているのだ。


「……俺さ、今日のこと、たぶん一生忘れないと思う」


「そんなに大げさ?」


「俺にとっては、それくらい特別なんだよ」


えりはワイングラスを置き、ゆっくりと笑った。

その仕草のどこかに、勝は既視感を覚えた。

少し指を曲げて頬に触れるその癖、笑ったときに一拍おいて視線を外す間。


――どこかで、見たことがある。もっと、前に。


だが、思い出すには時間が足りなかった。


えりは食後のデザートを口に運びながら、ぽつりと呟いた。


「……もしも、わたしが違う人間だったら、どうする?」


「え?」


「たとえば、見た目は同じでも、中身が全然別の誰かだったら……。それでも、一色くんはそのまま一緒にいられると思う?」


その問いは唐突で、そして奇妙だった。

勝は戸惑いながらも、無邪気な問いかけだと受け取った。


「……中身が変わったって、俺は“えり”のことが好きなんだと思う。だから、平気だよ」


「……そっか」


えりはそれ以上は何も言わず、静かに笑った。


その笑みの奥に揺れていたもの。

それが“微笑み”の名を借りた哀しみだったと、勝が知るのはもう少し後のことだった。



店を出て、駅へ向かう道。


雨が降り出す気配を感じながら、勝は傘を開いた。

えりは肩をすくめながら勝の傘に入る。


「送るよ。駅まででいい?」


「……うん、ありがとう」


並んで歩く2人の距離は、物理的には近かった。

けれど、その心の奥底では、誰にも触れられない秘密が、静かに蠢いていた。


えりの笑みの向こうにあるものに、勝はまだ気づいていなかった。


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