微笑みの向こう
六月に入ったばかりの風は、雨の匂いを含んで肌をなぞるように吹き抜けていく。
講義の終わった夕暮れ、校舎の出口でスマホを見ていた勝のもとに、あの声が届いた。
「ねえ、一色くん。今日、このあと……よかったら、ご飯、行かない?」
その言葉が現実のものだと理解するまでに、勝は数秒の時を要した。
何度も夢に見た場面。何度も空想で繰り返した“理想”。
それが、とうとう現実のものとして彼に与えられた。
「……え、本当に? 俺でいいの?」
「うん、なんとなく……今日は、一色くんと話したいなって思っただけ」
えりは無邪気に笑った。どこか飄々としたその態度に、いつもの距離感が滲んでいる。
それでも、今は“2人きり”という現実だけで十分だった。
*
駅前のビルにある、小さなイタリアンバル。
キャンドルライトがほのかに灯り、静かなジャズが流れている。
勝とえりは向かい合って座っていた。
店員が運んできた前菜の盛り合わせを前に、勝の心臓は高鳴りを抑えきれなかった。
「こんな店……よく知ってるね」
「えっと、前に友達と来たことがあって、雰囲気がよかったから……」
「ふーん。ちょっと意外。あんまり、こういうとこ行かなそうなイメージだった」
えりはワインを一口飲みながら、じっと勝の目を見た。
その視線は、どこか試すような、あるいは確かめるような色を帯びていた。
勝はその目に射抜かれたまま、笑顔を返すしかなかった。
「一色くんって、いつも真面目だよね。だけど、こうしてると……なんだろ、なんか懐かしい感じする」
「懐かしい?」
「うん。……前にも、こんな風に話したことあった気がする。もっと前に」
その言葉に、勝は一瞬だけ眉を寄せた。
だが、それ以上深く考える余裕はなかった。
目の前にいるのは、彼が手に入れたかった星見えりであり、今、その“奇跡”が起きているのだ。
「……俺さ、今日のこと、たぶん一生忘れないと思う」
「そんなに大げさ?」
「俺にとっては、それくらい特別なんだよ」
えりはワイングラスを置き、ゆっくりと笑った。
その仕草のどこかに、勝は既視感を覚えた。
少し指を曲げて頬に触れるその癖、笑ったときに一拍おいて視線を外す間。
――どこかで、見たことがある。もっと、前に。
だが、思い出すには時間が足りなかった。
えりは食後のデザートを口に運びながら、ぽつりと呟いた。
「……もしも、わたしが違う人間だったら、どうする?」
「え?」
「たとえば、見た目は同じでも、中身が全然別の誰かだったら……。それでも、一色くんはそのまま一緒にいられると思う?」
その問いは唐突で、そして奇妙だった。
勝は戸惑いながらも、無邪気な問いかけだと受け取った。
「……中身が変わったって、俺は“えり”のことが好きなんだと思う。だから、平気だよ」
「……そっか」
えりはそれ以上は何も言わず、静かに笑った。
その笑みの奥に揺れていたもの。
それが“微笑み”の名を借りた哀しみだったと、勝が知るのはもう少し後のことだった。
*
店を出て、駅へ向かう道。
雨が降り出す気配を感じながら、勝は傘を開いた。
えりは肩をすくめながら勝の傘に入る。
「送るよ。駅まででいい?」
「……うん、ありがとう」
並んで歩く2人の距離は、物理的には近かった。
けれど、その心の奥底では、誰にも触れられない秘密が、静かに蠢いていた。
えりの笑みの向こうにあるものに、勝はまだ気づいていなかった。




