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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第2部 崩壊の序曲
12/33

小さな嘘


五月の風は、冬の名残を微かに残しながらも、どこか落ち着きのない熱を孕んでいた。

一色勝はその風を感じることもなく、ただただ、完璧な静けさの中にいた。


赤井翔太の“事故”は、静かに片付けられた。

自転車のブレーキが利かなかっただけの単純な悲劇。誰もそれ以上を疑わなかった。

勝が赤井の部屋に忍び込み、器用な手つきでワイヤーを切ったのは、ほんの二日前の夜だった。


――これで、また一つ、邪魔な“影”が消えた。


「ねぇ、一色くん。ちょっと、いい?」


講義後の中庭。木漏れ日の下で、えりが勝に声をかけてきた。

その笑顔は変わらない。無防備で、明るくて、誰にでも平等に与えられる“優しい仮面”。


「うん、どうしたの?」


「最近さ、ちょっと気味悪いこと多くて……。知ってる? 渡部くんのことも、赤井くんのこともさ……なんか、連続してるよね?」


勝の脈が一瞬跳ね上がった。だが、表情には出さない。いや、出せない。

優しく微笑みながら、あたかもそれが他人事であるかのように相槌を打った。


「うん、偶然にしては不自然だよね。でも、赤井くんのは事故だったんじゃ……?」


「もちろん、そうなんだけど……でも、わたしの周りで続いてるのが、ちょっと怖いなって思っちゃって」


えりの声は微かに震えていた。

しかしその瞳の奥には、恐怖というよりも、何かを探るような光があった。


「……えり、大丈夫だよ。怖がることなんて、なにもない」


勝はそう言いながら、えりの肩にそっと手を置いた。

だがその手は一瞬だけ、震えていた。自分の感情に気づかれたのではないかという焦燥と、彼女が怯えていることへの昂ぶりが入り混じる。


――こんなにも近くにいるのに、まだ届かない。

どうして、まだ“あの男たち”の残り香が消えない?


「ありがとう、一色くん。優しいね」


えりは、勝の手をそっと握り返した。

その瞬間、勝の全身に電流が走る。呼吸が浅くなり、視界が一瞬、白く染まった。


「……えり……」


「わたし、一色くんのそういうとこ、すごく……好きだよ」


耳元で囁かれるその言葉。勝は一瞬、全てが報われたような気がした。

だが、えりの瞳はどこか遠くを見ていた。まるで、彼ではない誰かを映しているような。



夜。勝の部屋。


勝はノートを開き、えりのスケジュールを書き込んでいた。

すべてが繋がっている。誰が、どこで、どのタイミングで彼女に接触しているか。

その“ノイズ”を一つずつ消していけば、えりとの空間は純化されていく。


「あと……三人」


その独り言は、まるで愛の詩のように優しく響いた。



「えー、どうしよう、似合うかな……?」


高校時代、休日のショッピングモール。りえがピンク色のシュシュを手に取って鏡を見ていた。


「いいと思うよ。似合ってる」


勝は少し照れながらそう言った。


「ほんと? ありがとう。……勝って、プレゼント選び上手だよね。優しいし」


「そうかな」


「うん、絶対、彼女ができたら喜ぶと思うな」


その“彼女”が誰を指しているか、りえは口にしなかった。

だけど勝には、それが星見えりのことだと、当然のように思えた。


そして、りえの心が静かに沈んでいったことに、当時の勝は気づかなかった。



現在。


えりは自室のベッドの上で、スマホを手に持ちながら、じっと画面を見つめていた。

SNSには、消された人たちの投稿が、まだ生きているように並んでいる。


「……また、一人、いなくなったね」


えりの姿の中から零れるようにして漏れた。

その手の中には、小さな鍵のペンダント。


初恋に囚われた鎖が、音もなく締まり始めていた。


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