小さな嘘
五月の風は、冬の名残を微かに残しながらも、どこか落ち着きのない熱を孕んでいた。
一色勝はその風を感じることもなく、ただただ、完璧な静けさの中にいた。
赤井翔太の“事故”は、静かに片付けられた。
自転車のブレーキが利かなかっただけの単純な悲劇。誰もそれ以上を疑わなかった。
勝が赤井の部屋に忍び込み、器用な手つきでワイヤーを切ったのは、ほんの二日前の夜だった。
――これで、また一つ、邪魔な“影”が消えた。
「ねぇ、一色くん。ちょっと、いい?」
講義後の中庭。木漏れ日の下で、えりが勝に声をかけてきた。
その笑顔は変わらない。無防備で、明るくて、誰にでも平等に与えられる“優しい仮面”。
「うん、どうしたの?」
「最近さ、ちょっと気味悪いこと多くて……。知ってる? 渡部くんのことも、赤井くんのこともさ……なんか、連続してるよね?」
勝の脈が一瞬跳ね上がった。だが、表情には出さない。いや、出せない。
優しく微笑みながら、あたかもそれが他人事であるかのように相槌を打った。
「うん、偶然にしては不自然だよね。でも、赤井くんのは事故だったんじゃ……?」
「もちろん、そうなんだけど……でも、わたしの周りで続いてるのが、ちょっと怖いなって思っちゃって」
えりの声は微かに震えていた。
しかしその瞳の奥には、恐怖というよりも、何かを探るような光があった。
「……えり、大丈夫だよ。怖がることなんて、なにもない」
勝はそう言いながら、えりの肩にそっと手を置いた。
だがその手は一瞬だけ、震えていた。自分の感情に気づかれたのではないかという焦燥と、彼女が怯えていることへの昂ぶりが入り混じる。
――こんなにも近くにいるのに、まだ届かない。
どうして、まだ“あの男たち”の残り香が消えない?
「ありがとう、一色くん。優しいね」
えりは、勝の手をそっと握り返した。
その瞬間、勝の全身に電流が走る。呼吸が浅くなり、視界が一瞬、白く染まった。
「……えり……」
「わたし、一色くんのそういうとこ、すごく……好きだよ」
耳元で囁かれるその言葉。勝は一瞬、全てが報われたような気がした。
だが、えりの瞳はどこか遠くを見ていた。まるで、彼ではない誰かを映しているような。
*
夜。勝の部屋。
勝はノートを開き、えりのスケジュールを書き込んでいた。
すべてが繋がっている。誰が、どこで、どのタイミングで彼女に接触しているか。
その“ノイズ”を一つずつ消していけば、えりとの空間は純化されていく。
「あと……三人」
その独り言は、まるで愛の詩のように優しく響いた。
*
「えー、どうしよう、似合うかな……?」
高校時代、休日のショッピングモール。りえがピンク色のシュシュを手に取って鏡を見ていた。
「いいと思うよ。似合ってる」
勝は少し照れながらそう言った。
「ほんと? ありがとう。……勝って、プレゼント選び上手だよね。優しいし」
「そうかな」
「うん、絶対、彼女ができたら喜ぶと思うな」
その“彼女”が誰を指しているか、りえは口にしなかった。
だけど勝には、それが星見えりのことだと、当然のように思えた。
そして、りえの心が静かに沈んでいったことに、当時の勝は気づかなかった。
*
現在。
えりは自室のベッドの上で、スマホを手に持ちながら、じっと画面を見つめていた。
SNSには、消された人たちの投稿が、まだ生きているように並んでいる。
「……また、一人、いなくなったね」
えりの姿の中から零れるようにして漏れた。
その手の中には、小さな鍵のペンダント。
初恋に囚われた鎖が、音もなく締まり始めていた。




