静かな熱
大学の講義室は、クーラーの風が微かに肌を撫でていた。五月の陽差しが強くなる中、教室の中は静かに涼しい。
一色勝は窓際の席に座り、目の前の講義スライドを眺めているふりをしながら、その実、視線はずっと斜め前――星見えりの横顔に吸い寄せられていた。
えりはいつものように軽く髪を束ねている。耳にかかる髪の先がゆれるたび、勝の心臓もわずかに揺れるようだった。
渡部が姿を消してから、まだ一週間も経っていない。
大学は彼の事故について簡単な注意喚起を出しただけで、学生たちはすぐに日常に戻っていた。
だが、勝の中では明らかに何かが変わっていた。
殺意は、熱だった。
今もじんわりと内側で燃え続けている。
えりのために行動したという事実は、勝の感情に奇妙な肯定感を与えていた。
世界の輪郭がくっきりして見える――まるで、やっと本当の自分になれたかのような。
「……一色くん」
その声に、勝は我に返った。
星見えりが、こちらを向いていた。
講義後、荷物をまとめながら彼の名前を呼んだのだ。
久しぶりに、彼女のほうから話しかけてきた。
「今日のレジュメ、もしあれだったらコピーさせてくれない?途中で寝落ちしちゃってさ」
「……あ、うん。全然いいよ」
声が少し震えたのを、勝は悟られないように笑みで誤魔化した。
彼女の方から、接触してきた。この一瞬を逃すまいと、心が沸騰するのを感じる。
「ありがとう。助かるー」
彼女は無防備に笑って、勝の隣に腰を下ろした。
手元のレジュメに目を走らせながら、勝のノートも覗き込む。
ふと、彼女の指が勝の手の甲に触れた。
一瞬の、偶然のふれあい。
その熱が、勝の中の火種をまた煽った。
何でもないふりをしている彼女に気づかれぬよう、呼吸を静かに整える。
そのとき、何気ない一言が、彼の記憶を呼び起こした。
「一色くん、字……綺麗だね。意外」
一瞬だけ、記憶の奥で、似たような言葉が重なった。
——「勝って、手、綺麗だね」
それは、高校の頃の放課後だった。
窓から夕陽が差し込む廊下の端で、何気なく制服の袖をまくっていたとき。
塩見りえが、こちらを見てそう言った。
どこか遠くを見るような眼差しで、小さな声で。
“手が綺麗”――その一言を、不思議と今も覚えている
『手、綺麗だね』と。
言われた瞬間は気にもしなかったが、今思えば、あれは――いや、今は考えるべきじゃない。
目の前には“星見えり”がいる。
その存在が全て。
勝は心の中で念じるように言い聞かせ、微笑んだ。
「ありがと。見やすいように書いてるだけだけどね」
「ふーん……そういうとこ、丁寧なんだ」
えりはにこりと笑いながら立ち上がり、プリントを鞄にしまった。
「じゃ、ありがとね。一色くん」
教室を出ていく彼女の後ろ姿を、勝はしばらく見送った。
視線の奥には、抑えきれない熱がまだ残っている。
それは静かで、そして確実な炎だった。
もっと話したい。
もっと触れたい。
もっと、近くにいたい。
その欲望は、もう「想い」の域を超えていた。
教室にひとり残った勝は、ふと視線を手元に落とす。
“えり”にまた触れられた手を、見つめた。
綺麗だと、言ってくれた手。
この手で、彼女を守ると決めたのだ――たとえ、そのために、また誰かを排除しなければならないとしても。




