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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
第2部 崩壊の序曲
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静かな熱


大学の講義室は、クーラーの風が微かに肌を撫でていた。五月の陽差しが強くなる中、教室の中は静かに涼しい。

一色勝は窓際の席に座り、目の前の講義スライドを眺めているふりをしながら、その実、視線はずっと斜め前――星見えりの横顔に吸い寄せられていた。


えりはいつものように軽く髪を束ねている。耳にかかる髪の先がゆれるたび、勝の心臓もわずかに揺れるようだった。


渡部が姿を消してから、まだ一週間も経っていない。

大学は彼の事故について簡単な注意喚起を出しただけで、学生たちはすぐに日常に戻っていた。


だが、勝の中では明らかに何かが変わっていた。


殺意は、熱だった。

今もじんわりと内側で燃え続けている。

えりのために行動したという事実は、勝の感情に奇妙な肯定感を与えていた。

世界の輪郭がくっきりして見える――まるで、やっと本当の自分になれたかのような。


「……一色くん」


その声に、勝は我に返った。


星見えりが、こちらを向いていた。

講義後、荷物をまとめながら彼の名前を呼んだのだ。

久しぶりに、彼女のほうから話しかけてきた。


「今日のレジュメ、もしあれだったらコピーさせてくれない?途中で寝落ちしちゃってさ」


「……あ、うん。全然いいよ」


声が少し震えたのを、勝は悟られないように笑みで誤魔化した。

彼女の方から、接触してきた。この一瞬を逃すまいと、心が沸騰するのを感じる。


「ありがとう。助かるー」


彼女は無防備に笑って、勝の隣に腰を下ろした。

手元のレジュメに目を走らせながら、勝のノートも覗き込む。


ふと、彼女の指が勝の手の甲に触れた。

一瞬の、偶然のふれあい。


その熱が、勝の中の火種をまた煽った。

何でもないふりをしている彼女に気づかれぬよう、呼吸を静かに整える。


そのとき、何気ない一言が、彼の記憶を呼び起こした。


「一色くん、字……綺麗だね。意外」


一瞬だけ、記憶の奥で、似たような言葉が重なった。


——「勝って、手、綺麗だね」


それは、高校の頃の放課後だった。

窓から夕陽が差し込む廊下の端で、何気なく制服の袖をまくっていたとき。

塩見りえが、こちらを見てそう言った。

どこか遠くを見るような眼差しで、小さな声で。


“手が綺麗”――その一言を、不思議と今も覚えている


『手、綺麗だね』と。


言われた瞬間は気にもしなかったが、今思えば、あれは――いや、今は考えるべきじゃない。


目の前には“星見えり”がいる。

その存在が全て。

勝は心の中で念じるように言い聞かせ、微笑んだ。


「ありがと。見やすいように書いてるだけだけどね」


「ふーん……そういうとこ、丁寧なんだ」


えりはにこりと笑いながら立ち上がり、プリントを鞄にしまった。


「じゃ、ありがとね。一色くん」


教室を出ていく彼女の後ろ姿を、勝はしばらく見送った。

視線の奥には、抑えきれない熱がまだ残っている。

それは静かで、そして確実な炎だった。


もっと話したい。

もっと触れたい。

もっと、近くにいたい。


その欲望は、もう「想い」の域を超えていた。


教室にひとり残った勝は、ふと視線を手元に落とす。

“えり”にまた触れられた手を、見つめた。


綺麗だと、言ってくれた手。

この手で、彼女を守ると決めたのだ――たとえ、そのために、また誰かを排除しなければならないとしても。


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