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イベリスの鎖  作者: Amit Tsu
プロローグ
1/33

白い花の記憶


 四月の風が、桜の花びらと一緒に白い花を運んできた。

 キャンパスの片隅に、ひっそりと咲くその小さな白い花に、一色勝は思わず足を止めた。

 誰かが植えたものなのか、それとも野生なのかはわからない。ただ、それが自分の記憶と重なっていることだけは確かだった。


 ――イベリス。


 花の名前を思い出したのは、随分と前に図鑑で調べたからだ。意味は覚えていない。ただ、その清楚な白さが、ある少女の姿と重なって離れなかった。


 星見えり。


 彼女の名前を、心の中で呼んだだけで胸が締め付けられる。


「……もう、会えるんだよな」


 勝はポケットに手を突っ込んで、小さくつぶやいた。


 入学式を終えたばかりのこの日、彼の目的はただひとつ――再会だった。中学時代、たった一人、どん底にいた自分を救ってくれたあの少女に、もう一度会うこと。いや、もう一度だけでは足りない。これから先の人生、彼女と共に歩むために、この春があるのだ。


 中学生1年生の四月。あの頃の自分は、体重が90キロ近くあり、髪もボサボサで、笑いものにされていた。給食でおかわりをしただけで、クラスの男子たちに豚だの山だのと囃し立てられ、女子たちはあからさまに嫌悪を示していた。

 だが、そんな中でたった一人、星見えりだけが手を差し伸べてくれた。


 ――そんなこと言っちゃ、だめだよ。

 ――おかわりしたいのって、悪いことじゃないでしょ?


 教室の片隅、あの日の記憶はいつも鮮やかだ。彼女の声も、仕草も、匂いも、全部。


 それからの三年間、勝は変わろうと決めた。だが、変わるには時間が必要だった。

 彼女はいつも友達が多く、優しくて、少し遠い存在だった。勝がまともに会話できたのは、ほんの数えるほどしかない。中学の卒業式の日でさえ、彼女にかけられた言葉はただ一言。


 「元気でね、一色くん」


 ――名字で呼ばれたことが、嬉しくもあり、寂しくもあった。


 高校では別々になった。彼女の進学先は偏差値の高い進学校。勝は自分の成績を嘆きつつも、まずは変わることを選んだ。

 親友の塩見りえの協力もあって、彼は食事管理、筋トレ、姿勢矯正、スキンケア、ファッション、髪型――あらゆる方法を試し続けた。

 努力の末、三年の終わりには、誰が見ても「イケメン」と呼ばれるようになっていた。


 そして、今年。勝は星見えりと同じ大学に進学した。


 それは偶然ではなかった。彼女が第一志望にしていた大学を調べ、進学先を合わせた。今度こそ、話せる。隣にいられる。奪い取る。

 この「新しい自分」なら、彼女に相応しい。


 そのとき、ふと、背後で名前を呼ばれた。


「ひいろ、くん……? もしかして、一色……勝、くん?」


 時が止まったようだった。


 振り返る。そこにいたのは、あの頃の面影を残しながらも、どこか違って見える少女だった。

 黒髪は少し短くなり、制服ではなく春色のブラウスに身を包み、誰にでも話しかけるような笑顔を浮かべていた。


「え、えり……?」


「わあ、やっぱりそうだ! なんか、すっごい変わったから最初気づかなかった。すごくかっこよくなったね」


 その瞬間、勝の中で、何かが弾けた。


 言葉にならない高揚。脳内で鐘が鳴っているようだった。心臓が跳ね、喉が渇き、目の前の彼女のすべてを焼きつけようと必死になる。


「久しぶり、だね……」


「うん、ほんとに。中学以来だよね。なんだか懐かしいな」


 彼女の口調は、あの頃と違っていた。

 以前の星見えりは、もっと静かで、敬語を使いがちだったはず。今の彼女は、誰にでもタメ口で話すタイプに見える。


 だが、勝はそれを「大学デビューかな」と納得する。彼女だって、自分と同じように、何かを変えたのだろうと。

 だから、この違和感に深くは立ち入らなかった。


 むしろ嬉しかった。ついに、自分の人生が報われると感じていた。


 星見えりが、目の前にいる。


 彼女が笑っている。

 この笑顔を守るためなら、何でもできる。

 たとえ――世界を敵に回しても。


 勝は、そっと白い花を見下ろした。


 あの日、彼女の背中越しに見た、イベリスの花。

 それが再び目の前にある。運命が巡った証だ。


 もう間違わない。手に入れる。今度こそ。


 ――星見えりを。


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