白い花の記憶
四月の風が、桜の花びらと一緒に白い花を運んできた。
キャンパスの片隅に、ひっそりと咲くその小さな白い花に、一色勝は思わず足を止めた。
誰かが植えたものなのか、それとも野生なのかはわからない。ただ、それが自分の記憶と重なっていることだけは確かだった。
――イベリス。
花の名前を思い出したのは、随分と前に図鑑で調べたからだ。意味は覚えていない。ただ、その清楚な白さが、ある少女の姿と重なって離れなかった。
星見えり。
彼女の名前を、心の中で呼んだだけで胸が締め付けられる。
「……もう、会えるんだよな」
勝はポケットに手を突っ込んで、小さくつぶやいた。
入学式を終えたばかりのこの日、彼の目的はただひとつ――再会だった。中学時代、たった一人、どん底にいた自分を救ってくれたあの少女に、もう一度会うこと。いや、もう一度だけでは足りない。これから先の人生、彼女と共に歩むために、この春があるのだ。
中学生1年生の四月。あの頃の自分は、体重が90キロ近くあり、髪もボサボサで、笑いものにされていた。給食でおかわりをしただけで、クラスの男子たちに豚だの山だのと囃し立てられ、女子たちはあからさまに嫌悪を示していた。
だが、そんな中でたった一人、星見えりだけが手を差し伸べてくれた。
――そんなこと言っちゃ、だめだよ。
――おかわりしたいのって、悪いことじゃないでしょ?
教室の片隅、あの日の記憶はいつも鮮やかだ。彼女の声も、仕草も、匂いも、全部。
それからの三年間、勝は変わろうと決めた。だが、変わるには時間が必要だった。
彼女はいつも友達が多く、優しくて、少し遠い存在だった。勝がまともに会話できたのは、ほんの数えるほどしかない。中学の卒業式の日でさえ、彼女にかけられた言葉はただ一言。
「元気でね、一色くん」
――名字で呼ばれたことが、嬉しくもあり、寂しくもあった。
高校では別々になった。彼女の進学先は偏差値の高い進学校。勝は自分の成績を嘆きつつも、まずは変わることを選んだ。
親友の塩見りえの協力もあって、彼は食事管理、筋トレ、姿勢矯正、スキンケア、ファッション、髪型――あらゆる方法を試し続けた。
努力の末、三年の終わりには、誰が見ても「イケメン」と呼ばれるようになっていた。
そして、今年。勝は星見えりと同じ大学に進学した。
それは偶然ではなかった。彼女が第一志望にしていた大学を調べ、進学先を合わせた。今度こそ、話せる。隣にいられる。奪い取る。
この「新しい自分」なら、彼女に相応しい。
そのとき、ふと、背後で名前を呼ばれた。
「ひいろ、くん……? もしかして、一色……勝、くん?」
時が止まったようだった。
振り返る。そこにいたのは、あの頃の面影を残しながらも、どこか違って見える少女だった。
黒髪は少し短くなり、制服ではなく春色のブラウスに身を包み、誰にでも話しかけるような笑顔を浮かべていた。
「え、えり……?」
「わあ、やっぱりそうだ! なんか、すっごい変わったから最初気づかなかった。すごくかっこよくなったね」
その瞬間、勝の中で、何かが弾けた。
言葉にならない高揚。脳内で鐘が鳴っているようだった。心臓が跳ね、喉が渇き、目の前の彼女のすべてを焼きつけようと必死になる。
「久しぶり、だね……」
「うん、ほんとに。中学以来だよね。なんだか懐かしいな」
彼女の口調は、あの頃と違っていた。
以前の星見えりは、もっと静かで、敬語を使いがちだったはず。今の彼女は、誰にでもタメ口で話すタイプに見える。
だが、勝はそれを「大学デビューかな」と納得する。彼女だって、自分と同じように、何かを変えたのだろうと。
だから、この違和感に深くは立ち入らなかった。
むしろ嬉しかった。ついに、自分の人生が報われると感じていた。
星見えりが、目の前にいる。
彼女が笑っている。
この笑顔を守るためなら、何でもできる。
たとえ――世界を敵に回しても。
勝は、そっと白い花を見下ろした。
あの日、彼女の背中越しに見た、イベリスの花。
それが再び目の前にある。運命が巡った証だ。
もう間違わない。手に入れる。今度こそ。
――星見えりを。




