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アイビーはすでに植えられている。

作者: 四季灯
掲載日:2024/10/03

 ───四月。

 春休みが明けて、新学年として再開した学校生活や、新生活の始まり。人々は慣れない環境に適応しようと慌ただしく動き、町中がなんとなく一つの台風にでもなったかのように目まぐるしい。温暖化などの影響ですっかり早咲きになった桜は入学式シーズンの今ごろになるとほとんど葉桜へと姿を変えていて、頬をわずかに紅潮させた新入生が新品の制服に身を包んでわずかな桜色に触れ合っている。地面に散った桜色は、すでに目まぐるしい台風によって土色へとその身を変色しようとしているというのにも関わらず、人々はそれに目を向けないままに。


 宮川は高校二年生になった。入学式の後、つい一か月ほど前まで自分のものだと主張していたはずの覚えのある痕のついた席に座って、一年間過ごした教室の窓から外の様子を眺めていた。

宮川以外はすでに帰ってしまった教室は、酷く静寂に包まれていて、頬杖をついて賑やかな外を眺めていると無性に泣きたくなる。新入生を歓迎する青空は、まるでそんな宮川をあざ笑うように雲を浮かべていた。


「明日から、もうお前と過ごせねえんだってよ」


 右手で机の痕をなぞりながら、宮川は呟いた。やけに響いた言葉に、返事はもちろんない。代わりに呼応するように、宮川はツンと鼻の奥が痛くなった気がした。

 この痕は、傷は、宮川が入学する前からあったものだ。何かで切りつけたような線をもとに、誰かが抉ろうとしてできた深い痕。プリントを書く際に穴が開くこともあったし、もちろん邪魔だと思うこともあったけれど。宮川はこの痕を、さらに綺麗に抉り取った。その夏の日から、この机はたしかに宮川にとって特別になったのだ。


「次に来た奴も、お前を特別に思ってくれるといいな」


 きっと、宮川の前の人も同じだったのだ。だから、机を交換できる権利があったのにもかかわらず、歴代の先輩たちも宮川も、この机を交換することはしてこなかった。宮川にとってこの机が特別だったのと同じぐらい、宮川の知らない誰かたちにとっても、特別だったのだろう。どうして特別になったのだとか、そんな明確な理由はなく、とにかくこれは自分の机なんだと、明確な自我が芽生えていた。

 机は変えようもないほど宮川のもので、誰にも渡したくない大切だった。それぐらい、明確な執着が生まれていた。宮川はそうだった。だから、きっと誰かたちもそうだと、宮川はそう思ったのだ。

 そして、それを後輩にも願ってしまうのは、宮川にとってこの机が特別だからだ。もう宮川のものではなくなってしまっても、誰かが使ってくれているならそれでもいい。自分が使えないなら、誰かが使えばいい。宮川にとっては、この机が使われないことの方が問題だったのだから。

 だって、誰かが使ってくれていれば、いつか宮川は再びこの机に出会うことができるかもしれない。けれども、誰も使わなくなって粗悪品と認定されれば、この机は廃棄されることが目に見えている。廃棄されてしまったら、宮川はもう二度と机と再会することはできなくなってしまう。だって、この世界にすでに存在していない命には、会うことはできないのだから。


「なあ、お前は、俺でよかったと思ってくれるかな」


 返事はない。壁から跳ね返った音が、やけにくっきりと輪郭をもって自分の耳に返ってきただけだった。自嘲気味な宮川の乾いた笑い声が、静寂に響く。


「っはは、お前が答えてくれるわけ、そりゃないよな」


 だって、机に命なんてないのだ。仮に付喪神がいたとしても、宮川が望む机の声は聞こえてくるわけがない。

 それでも。それだというのに、宮川が顔を上げることができたのは。


「今、お前……『よかった』って、そう答えてくれたのか…?」


 傷跡を触っていた指先から、不意に熱が伝わった。じんわりと暖かなそれは、柔らかく包み込むような温もりだ。偶然でも、もはやよかった。勘違いでも、宮川にはそれはたしかに返事だったから。都合のいい妄想などでなく、たしかにそうだったのだと。

 祝福するように、チャイムが鳴った。授業開始のチャイムではなく、少し長い、聞き慣れない方のチャイムだ。


「っああ。ああ、俺は、お前のことを永遠に忘れないよ」


 宗教なんて入っていない。神なんて信じていない。そんなものがいたなら、きっと宮川はもっと大切を守れて生きてきた。けれど、付喪神がいるならば。大切にしたものが使い手へ応えてくれることがあるのだとしたら。それは間違いなく、一人と一つの間で生まれた愛であると。それぐらい、自惚れたっていいのだと。

 宮川の視界には、机の輪郭がぼやけて見えた。蜃気楼のように、何か神々しい空気をまとうように。宮川は、たしかに愛を見た。


 もし、愛が返ってきたのなら。それなら、それはきっと、永遠の愛となる。忘れることのない、美しくも強固で、切れることのない、永遠の記憶へとなるはずなのだ。




 ───秋。

 夏の嫌な重たさも薄れ、緑が赤や黄色に色づいていくころ。すでに目まぐるしい台風は落ち着いていて、だというのにも関わらず、日本特有の急な川のようにせかせかと人が流れていた。紅葉へ変わっているというのに、紅葉になり切れなかった新緑を失った緑の葉っぱは、相変わらず踏まれては土色に姿を変えていた。

 宮川はあの日、高校二年生になった。そして、自分の執着と別れを告げたはずだ。同時に成長したあの日から、宮川は机のことをいつの間にか忘れて過ごしていた。

 だから、あの机が目の前に現れたとき、宮川の喉はひゅっと音を立てたのだろう。

 校舎。部活の後輩に会うために訪れた一年生の教室に、それはいた。


「見てくださいよ、先輩!こいつの使ってる机、こんなんなんすよ!」


 人懐っこい子犬のような後輩の、天真爛漫な笑顔。紹介するように示されたのは、おそらく後輩の友人であろう真面目そうな雰囲気のある少年と、そんな少年が使っているらしい机だった。

 痕。抉られたような、あの痕。自身が抉り取った、あの。


「俺はこれがいいから、交換するつもりはない。いつも言ってるだろ」

「でもさー、書きにくいだろ?」


 目の前で、少年が笑った。机の痕に右手で触れながら。


「……ああ、そうだな。その机、最高にかっけえよ」


 まるで、かつての自分のように、その机を愛していた。その机が、何よりも大切だと。これがいいのだと、執着に塗れた愛を向けていた。あんなにも宮川が愛していた、あの机を。この少年は、きっと今、誰よりも愛している。

 永遠に忘れないと誓ったはずの机を忘れていたことがどうかばれないようにと、宮川は机を直視できなかった。とにかく、この祈りが届きますようにと、握りしめた拳は嫌な汗をかいていた。神はいない。宗教なんて信じていない。だって、いたらもっと上手に生きてきた。それでも、どうか、どうか今だけは。どうか、この目の前の付喪神がいないことを、神に祈るほかなかった。







 四月。校庭の一角。暖かな風に見守られ、じんわりと冷えた土の中で目を覚ます。それは新生活に慣れて、すっかり我が物顔で生活するようになった秋ごろに姿を現す。

 ───アイビーはすでに植えられている。



 だって、付喪神は、愛ある人間を死んでも離れないのだから。たとえ人間が忘れてしまおうとも、決して離すことはあり得ない。付喪神は愛ゆえに育てられた傲慢な神なのだ。どうぞ、別れるだなんて妄言は諦めてくれ。後悔など、することすらさせやしないだろうから。

アイビー

「永遠の愛」「不滅」「友情」「結婚」「誠実」

「死んでも離れない」

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