76.「ライラックとデート【後編】」
【辰守晴人】
──カカシといえば、よく田んぼとか畑に突き刺さっているアレを想像するだろう。
害獣を怖がらせて寄せつけないことで、作物を守るための道具だ。
もし俺の認知が間違っていなければ、おおむねカカシとはそういうものだ。その筈だ。
『ハルを私のカカシにしたいです。』
──しかし、何度ノートを読み返しても意味が理解出来ない。カカシが俺の思っているカカシである以上、ここに書かれた内容は実に突拍子も無いものになってしまうのだ。
『すみませんライラック、失礼ですが頭大丈夫ですか?』
さすがに俺を木に縛り付けて畑に晒そうなんてことは無いだろうし、俺が知らないだけでカカシとは魔女界での隠語か何かなのかもしれない。
だから別に本気でライラックの正気を疑ってこんな事を書いたわけでは無い。冗談半分だ。
まあ、残り半分は本気だが。
ノートを渡すと、ライラックはサラサラと返事を認めた。
『良い感じです……けど、もっと強くてもいいかもです』
──しかし、ノートには再び理解不能な文章。
会話のキャッチボールならぬ、筆談のキャッチボールが成り立っていない気がしてきた。
「えーっと、ライラック? すみません、カカシの辺りから全然意味が分からないんですけど」
「……え、わ、分からな、かったの? ちょ、ちょっと、待つの」
俺が筆談ではなく口で直接伝えると、ライラックも釣られて辿々しく返事をして、再びノートになにやら書き込み始めた。
『私はハルと一緒に、カカシとカラスゲームがしたいです』
受け取ったノートにはそう書かれていた。残念ながらさっぱり分からない。初めて聴くゲームだ。
『それはいったいどんなゲームですか?』
『カラス役とカカシ役に分かれて行うゲームです。カカシ役はカラス役をあらゆる手段で痛めつけます。カラス役はそれに耐えます。以上です』
「……」
「……」
──さて、困ったことになった。いったい何からツッコんだらいいものか。
沈黙が空気を冷やして、まるで身体が凍りついたかのように俺もライラックも動かなかった。
「……それって、ゲームなんですか?」
しかし、黙っていても何も始まらない。取り敢えず聞くだけ聞いてみようじゃないか。
「……げ、ゲーム、なの。む、昔、ブラッシュに、教えて、もらったの」
「なるほど、ちなみにそのゲームに終わりはあるんですかね? こう、勝ち負けとか……」
「か、カカシが、満足したら、終了、なの」
「……だいたい把握しました。ありがとうございます」
──つまり、このゲームはあのブラッシュとかいう女狂いが、ライラックをいいように弄ぶために教えたゲーム、もといプレイということか。
ブラッシュ──スノウとは別のベクトルで知れば知るほど残念な魔女である。
とにかく、残念魔女の事は置いておくとして、今起こっている問題はライラックが何故かそのクソゲーを俺と一緒にしたがっているという事だ。
『こんな事言うのもなんですけど、あまり楽しそうではありませんね』
取り敢えずカカシがどうとかの真意は分かったが、絶対にやりたくないので阻止の方向で進めよう。
『ハルはカラス役の方がいいんですか?』
『ゲーム自体がという意味です!』
『そうですか。私が鴉に入った時に、ブラッシュが他人と打ち解け合えるゲームだと言って教えてくれたものなのですが、迷惑なこと頼んでごめんなさい』
ライラックは露骨に肩を落とし、前髪の隙間から覗く目を潤ませた。
「……」
俺は小さくため息をついて、ノートに字を書き込んでいく。
『どうしてもというなら、やらなくもないです。ちょっとだけなら……』
つい、情に絆されてしまった。自分でも分かっているが、女の子の哀しそうな顔を見てしまうと俺はダメなのだ。
ノートを見るなり、ライラックは物凄い勢いでペンを走らせた。結構な量の文字を書いているようだが──
『付き合ってくれてありがとうございます。ハルはやっぱり優しいです。けど、今からは優しくしちゃダメなゲームですよ?』
『いきなりは難しいと思うので、私がハルの台本を書きました。これの通りにしてくれるだけで構いません。けど、アドリブも大歓迎です』
先程までの落ち込みようは何処へやら、ライラックは嬉々としてノートに台本とやらを書き込み始めた。
謎多きゲームだが、もしかして演劇の真似事でもさせられるのだろうか──
* * *
壁一面を本で埋めたライラックの部屋は、どこかに香水でも置いてあるのか、妙に甘ったるい香りが充満していた。
「──まったく、元々期待なんてしてませんでしたけど、まさかここまで酷いなんて思いませんでしたよ」
遡ればブラッシュから端を発するカラスとカカシゲームは、想像の遥か上をいく酷さだった。
「……ご、ごめ、ごめんなさい、なの」
「言ってる事に対して行動が伴っていないんじゃあないですか?」
「……え、そ、その」
ライラックは戸惑ったように顔を伏せて、前髪を指で摘んでいる。
「土下座して下さいよ」
俺は極力冷徹に、吐き捨てるように言い放った。
「……は、はい、なの」
ライラックは一瞬肩をびくつかせた後、おずおずと膝を折り、俺の足元で土下座した。
「……やれやれ、土下座もまともに出来ないんですか? ちゃんと額を地面に擦り付けるんですよ、ほら」
俺はライラックの頭を足で踏みつけて、地面に顔を押し付けた。
「……ッあ、ご、ごめん、なさいなの」
──さて、ここまで台本通りな訳だが、既に俺の心は折れかかっている。
ライラック執筆の台本、とにかく内容がエグいのだ。ざっと目を通したが土下座なんてまだ序の口──正直完遂しきる自信は全く無い。
今だって女の子の頭を踏みつけている事にとんでもない罪悪感を感じている。
「あ、あの、何でもするから、ゆ、許して欲しいの……」
「何でも、ですか……だったらまずはそこの机に手をついて、お尻を上げてください」
「……え」
え、じゃなくて! 貴女が書いてるんですよ台本に! 俺だって本当はこんな事言いたか無いのだ。
「……ん」
しかし、ライラックは一向に立ち上がる気配がない。俺の演技に文句でもあるのだろうか、やると決めた以上かなり本気で頑張っているつもりだが。
「……むぅ」
ライラックは依然動く気配がない。困り果ててもう一度台本をよく見ると『ここで、お腹を思いきり蹴り上げて急かして下さい』と小さな字で書いてあった。
つまり、蹴られるまでは次に進む気は無い、と。
もうここまできたらヤケである。俺は土下座したままの体制のライラックの横に回り込み、腹を蹴り上げた。もちろん軽くである。
「さっさと立ってください!」
「……ッん!」
ライラックは小さく声をあげたが、しかし立ち上がる気配はない。
『思いきり蹴り上げて下さい』ってことか。このドMめ。
「……まったく、手のかかる人ですね──早く立ってください!」
「……ッひぐ!?」
自分でも驚くほど力が入ってしまった。蹴りでライラックの身体が少し浮き上がるほどだ。
「……っけほ、ごほ、っ、はい、なの」
しかし、ライラックはむせ返りながらもよろよろと立ち上がり、机に手をついた。
清楚な筈のセーラーワンピースが、ライラックのお尻のラインを生々しく浮かび上がらせていて妙に艶っぽい。
「さて、ではお仕置きの時間です」
「……うぅ、ごめ、ごめんなさい、なの」
台本通りに進むと、今から目の前で震えているこの可愛いお尻を凌辱しなければならないわけだが……何故だろう、だんだんと興が乗ってきた自分がいる気がするのは──
* * *
嬌声の合間を縫うように、粗い息づかいが室内に響く。
静穏な図書館を思わせた部屋は、今や甘い声と香りに支配され、全く別の様相を醸していた。
「──大人しそうな割に、随分といやらしい下着を付けてるんですね」
「……や、やだ、見ちゃだめ、なの」
台本も大詰めに差し掛かり、とうとう服を脱がせてベッドに押し倒すところまできてしまった。
不思議な事にさっきまでの罪悪感や嫌悪感は殆ど無くなり、むしろ興奮すら覚え始めていた。自分でも知らなかったが、もしかしてこっちの気があったのだろうか。
昨日はバブルガムにいいようにされたが、今日、今この瞬間は俺が主導権を握っている。
ライラックを……この目の前の少女をめちゃくちゃにしてやれると思うと、驚くほど胸が高鳴るのだ。
「……だめだめって、そもそも自分で書いた台本でしょう。ほんと、とんだ変態ですね」
「ご、ごめんなさい、変態で、ごめんなさい、なの」
これは台本には載っていない台詞、つまりはアドリブだ。いつの間にか俺の方がノリノリになっている。
「だいたい、話し合いの時からカカシにするとか言っていたあたり、初めからこういう事をするのが目的だったって事ですよね、ドン引きですよ」
「……ご、ごめ、なさぃ」
下着姿で震えるライラックは、今にも泣き出しそうな声だ。それが余計に嗜虐心を刺激する。
「……さっきから謝ってますけど、ほんとは喜んでるんじゃあないですか? いい加減その顔も拝ませてもらいますよ!」
「……ッだ、ダメ──」
俺はライラックをベッドに押さえつけて、彼女の前髪を掴み上げた。
──その時ふと、台本の最初の方に『前髪には絶対に触らないでください』と書いてあったのが頭をよぎった。
「──駄犬が」
「……へぶっ!?」
唐突だった。
気がついたら俺は部屋の壁、というか本棚に激突していて、頭に本の雨を浴びていた。
「──犬風情が、随分と調子に乗ってくれたなぁ」
俺を吹き飛ばしたライラックはベッドから起き上がると、前髪を頭の上でくるりと回してペンで留めた。
鴉の魔女は美形揃いだが、御多分に洩れずライラックも大層整った顔立ちだった。
いや、しかし今はそんな事を気にしている場合では無い。明らかに彼女の様子がおかしいのだ。
「……ッら、ライラック、急に何を……あぶっ!」
顔面目掛けて本が飛んで来た。それも広辞苑並みにゴツいやつが。
「貴様、気安く私のファーストネームを呼ぶな。在らん限りの畏敬と尊敬を込めてラミー様と呼べ」
「……あ、アドリブですか?」
「やれやれ、頭の中にクソでも詰まっているのか? 茶番はとっくに終わっているぞ」
ライラック、もといラミー様は、すたすたと俺の前まで近づいてくるとやおら脚を持ち上げた。
「……っが、あぁッ!?」
「駄犬、貴様のせいで部屋がめちゃくちゃだ。さっさと掃除しろ」
ライラックの脚が、俺の左の鎖骨を踏み砕いた。本気だ、断じて遊びやおふざけではない。
「……ふ、ふざけんな! お前が勝手にぐちゃぐちゃにしたんだろうが!!」
かなりの激痛だが、このくらいの怪我はイースとの組手でもはや日常茶飯事──数十秒もあれば完治する。
それより問題は怪我などではなく、豹変したこの女だ。
「……躾のなっていない犬だなぁ。誰に向かって口を聞いているつもりだ?」
まるで養豚場の豚を見るような目で、ライラックは俺を睨め付けた。
強気な事を口走ったが、肩がすくむほど怖い。左肩は動かないが。
「……ライ、ラミー様、です」
「ふむ、少しは脳みそが詰まっているようだな。ではさっさと掃除に取り掛かれ駄犬。終わり次第、私に働いた無礼の仕置きをしてやる」
完全に人が変わっている。原因は、前髪を上げたせい……なのだろうか。
とにかく今のライラックはまともでは無い──いや、さっきまでもまともでは無かったか。
「ら、ラミー様? さっきのはラミー様から言い出した事で、無礼というかプレイ……」
「犬が勝手に吠えるなッ!!」
再び俺の顔面に本が飛んできた。六法全書くらいのやつ。しかも二冊。
「いいか駄犬、貴様にはもはや人権は無い、なにせ犬だからな。よって、私の許し無くして勝手な行動は許さん。話すこともクソを垂れることも何もかもだ。すべて私が管理する」
めちゃくちゃだ。破天荒さで言えばイースとバブルガムがいい勝負だったが、ライラック……いや、ラミー様がぶっちぎりで一位だ。
このままでは家に帰るどころか犬にされかねない。何とかしなければいけないが──
あの前髪。そもそもあの前髪を上げたせいでこんな事になったのだ。子供でも思いつくような発想だが、逆に前髪を下ろせば元の辿々しいライラックに戻るのでは……?
試してみる価値は充分あるだろう、髪を留めているあのペンを引き抜けばいいだけのこと。それくらいならラミー様相手でも何とかなる筈──
「おい駄犬、念のために忠告しておいてやるが、私の前髪をどうこうしようなどと考えるなよ? これからも二足歩行したければな」
なんとか、ならないかもしれない。




