52.「レイチェルと錠前」
【馬場櫻子】
「──ねえヴィヴィアン、質問してもいいかな」
「なんじゃ、このハムをよこせと言うなら無理な相談じゃぞ」
「ケチ、でもハムのことじゃないよ」
城壁の上でワインをちびちびやっているヴィヴィアンは、不思議そうな目でわたしを見た。
「ヴィヴィアンはさ、しょっちゅうウィスタリアとかと喧嘩して腕が取れたりしてるでしょ、あれって痛くないの?」
「なんじゃ藪から棒に……まあ、此方は寛大じゃから答えてやるが……まあ、痛かったり痛く無かったりじゃの。痛覚を遮断しておる時は痛みは感じぬし、そうでない時は普通に痛い」
「へえ、痛覚ってどうやって遮断するの?」
「……お主、此方と同じ黒羽が使えるからといって、不死身体質まで使えるとか思っておらんじゃろうな」
「まさか、ただちょっと興味が湧いてね。大事でしょ、興味を持ち続けること」
「……ふむ、まあよいか。痛覚遮断のコツはじゃな、ズバリ錠前じゃ」
ヴィヴィアンは城壁から垂らした足をぷらぷらさせながらフォ─クをハムに突き刺した。
「……錠前?」
「然り、痛みを感じる器官に錠を掛けるイメ─ジかのう、こう、ガチャリと」
「なんか思ってたのと違う」
「脳の神経がどうとか言うと思うたか? そんなことは関係ない。実際此方等は自身の身体にどんな臓物が詰まっておって、何本の血管があるかなぞ把握しておらんが、身体はきっちりその全てを使って仕事しとるじゃろう」
「なるほど、何となく分かる」
「つまり理屈ではなく、イメ─ジが大事なのじゃ。細かいことは大概後から勝手に付いてくるものじゃ。故に魔法において大事なのはイメ─ジ、分かったかの?」
ヴィヴィアンはハムを頬張ると、ワインで流し込んだ。
「大変勉強になりました。どうもありがとう」
「うむ、苦しゅうない。では今度は此方の番じゃが……」
「うん、なにかな?」
「お主のその妙ちくりんな格好はなんじゃ?」
ヴィヴィアンは訝しむような目でわたしをフォ─クで指した。
「……何って、制服だよ? 学校の」
「……学校の、制服とな? さっぱり分からん」
「いやいや、最近いつも事務所来る時はこの格好でしょ?」
「〇〇、お主何を言うておるのじゃ? 事務所とは何じゃ」
ヴィヴィアンはふざけているのか何なのか、全く会話が噛み合わない。こういうところにウィスタリアとの喧嘩の原因があるとみた。
「もう、わたしの名前は櫻子だよ、馬場櫻子……って、あれ、何でわたし社長にタメ口だったんだろう」
「……もうよい、気が済んだじゃろう」
おかしい、急に物凄い違和感が頭を埋め尽くしていく。
「……ま、まって、社長、行かないで」
「〇〇、しっかりせんか。そんなことではロ─ドの名が泣くぞ」
「……何言ってるんですか、だからはわたしの名前は、名前……わたしの、名前」
頭を埋め尽くす砂嵐のような違和感が、段々と晴れてきた。
「まだ言うか、お主は馬場櫻子などという名ではない」
「……そうだ、わたしの名前……馬場櫻子なんて名前じゃない」
──こうなると、逆に不思議なくらいだ。
一体全体、どうしてわたしは自分のことを馬場櫻子だなんて思い込んでいたんだろう。
「……ヴィヴィアン。わたしの名前、もう一回呼んでくれる?」
「まったく、よもや今まで寝ぼけておったのか? お主は鴉の四大魔女が一人、熾天卿レイチェル・ポ─カ─じゃろうが」
そうだ、思い出した。わたしの名前はレイチェル。レイチェル・ポ─カ─だ──
* * *
【レイチェル・ポ─カ─】
──目を開いて一番最初に感じたのは暗闇。次に痛みだった。
わたしは暗くて狭い、箱のようなものの中に閉じ込められているようだ。腹部に感じる刺すような痛みで、段々意識と記憶が鮮明になってきた。
今日は温泉合宿二日目、ワニが逃げたと警報が鳴り響き、怪我をした女の子がいたから助けようとしたけど、彼女は魔女狩りで、騙されたわたしは刺されたのだ。
そう、それでその後首を絞められて気を失った。
つまり腹部のコレは、刺すような痛みというか、刺さっているから痛いのだ。
でも正直、今はこんな傷なんて二の次だ。わたしが何者なのか、それが最も重要な問題だろう。
目が覚めてから今までの記憶に特に変化はないけれど、ただはっきりと、自分は馬場櫻子という人物ではなく、レイチェル・ポ─カ─だという確信があった。
肉体も、これまで歩んできた人生を顧みても、記憶は馬場櫻子のもので、レイチェル・ポ─カ─としての記憶は名前くらいしかないのだけど、それでもわたしには確信あるのだ。
「……とにかく、ここから出なきゃね」
最も重要な問題は、現時点ではいくら考えても解決しそうにない。だったら次に重要な問題を片付けることにしよう。
わたしの横っ腹にナイフを突き刺してくれた異端審問官、彼女を野放しには出来ない。
わたしは暗闇の中で目を閉じて、頭の中に錠前を思い浮かべた。
「痛覚遮断」
わたしは錠に鍵を差し込んで、ガチャリと鍵を掛けた。すると、途端に脇腹の痛みが消えて無くなった。存外、ヴィヴィアンは昔から他人にものを教えるのが上手かったのかもしれない。
「よしよし、全然痛くない……黒羽!」
痛みが消えたので黒羽を発動、ブレ─ド状にした翼で周囲を適当に切り裂いた。
ガラガラと壁になっていたものが崩れるのと同時に明かりが差し込む。起き上がって見ると、どうやらわたしは倒れたロッカ─に詰め込まれていたようだ。
わたしは身体に刺さっていたナイフを引き抜いて放り捨てた。痛覚を遮断しているから痛くも痒くもない。
傷口から血が溢れ出すが、すぐに出血は止まり、みるみるうちに塞がってしまった。こうなることは何となくだけど分かっていた……いや、思い出したと言った方がニュアンスが近いか。
「……ヴィヴィアンと同じ不死身体質……わたしはいったい──」
──ガガァァンッ!!
己の異常性に驚きを通り越して、もはや呆れていたところに轟音が転がり込んだ。
音は、この部屋の扉を挟んだ奥から聞こえる。おそらくあの異端審問官だろうけど、何を暴れているのか──
「……そうだ、ヒカリちゃん!!」
何ということだ、そういえば気を失う前に、あの異端審問官はわたしのスマ─トファンを使ってヒカリちゃんを誘き出していたんだった。
あの時は恐怖と激痛で意識が朦朧としていたし、今の今まですっかり忘れていた。
わたしはおっとり刀で部屋を飛び出して、音の方へ向かった。
わたしが駆けつけると案の定、異端審問とヒカリちゃんが戦っていた。いや、一方的な異端審問官の攻撃からヒカリちゃんが逃げ惑っているように見える。
ヒカリちゃんを襲う女の背中からは、気味の悪い脚のようなものが無数に生えていて、その脚が伸縮しながらヒカリちゃんを突き殺さん勢いで襲い掛かっている。
「──お姉さん!! Dが部屋から出てきました!」
突然、倉庫内に少年の声が反響した。周囲を見回すが、うまく隠れているようで声の出どころがはっきり分からない。
「……あらあら、ダメじゃないですか。大人しく寝ていてくれないと」
女は少年の声を聞くとピタリと攻撃をやめて、わたしの方に向き直った。
改めて対峙するとこの女、中々どうして大した魔力だ。まともにやり合えば並の魔女では太刀打ちできないだろう。ヒカリちゃんが防戦一方になるのも無理はない。
「櫻子! 無事だったのか!?」
「まだ検討中かな。ヒカリちゃんこそ大丈夫?」
怒涛の攻撃から解放されたヒカリちゃんは、十数メ─トル離れた場所から一足飛びにわたしの隣に移動した。
見たところ目立った外傷は無い。所々切り傷はあるけど、どれもかすり傷みたいなものだ。
「アタシも問題ない、けどあの女かなり手強いぞ」
「みたいだね、でもわたしとヒカリちゃんの二人がかりなら多分倒せない相手じゃないよ」
「な、どうした櫻子……やっぱ頭とか打ってんじゃねえのか!?」
ヒカリちゃんがすごく真剣な眼差しでわたしの顔を見上げている。本気で心配しているらしい。
「もう、お腹は刺されたけど頭は打ってないよ。それにわたし、今絶好調なんだよ」
わたしは黒羽を発動した。ただ、羽の代わりに禍々しい脚を生やした。異端審問の女と同じ形の脚を、倍の数で。
「……ッ!? な、何ですかその魔法……そんなの、反則でしょ」
女は見るからに狼狽えているようだ。しかし油断は出来ない。なにせこの女かなりの演技派である。
「さ、櫻子!? 急にどうしたんだよお前……ヴィヴィアンみてぇになってんぞ」
「ヴィヴィアンに教わったからね……で、どうするの魔女狩りさん、このまま二対一で戦ってみる?」
「……いいでしょう、今日のところは引き下がります。ああでも、またご縁があったらその時は宜しくお願いしますね」
女はそう言うと、何処からか現れた少年を連れて姿を消した。ずっと隠れていた少年が出て来たのだから、本当に退却したのだろう。これでひとまずは安心だ。
「……わっけ分かんねえ、あいつ等逃がしてよかったのかよ」
「うん、二人がかりなら倒せたと思うけど、ここに襲撃に来てる魔女狩りって、多分他にもいるみたいなんだよね」
「なんだと、じゃあもしかしてバカルタとかカノンのとこにも異端審問官が……!?」
「うん、だからここで戦って時間を潰すよりも、まずは皆の無事を確認しに行こう」
襲撃してきている異端審問官の強さが、全員さっきの女レベルならかなり厄介だ。カルタちゃん達無事だといいけど──
「……なんか人が変わったみてぇだな……お前まさか魔女狩りが化けてたりしねぇだろうな!」
変わったみたいというか、変わったのだから当たり前だ。ただ、勘はいいけど結論が明後日の方を向いているな、ヒカリちゃん。
「もう、そんなわけないでしょ。今は時間ないんだからさっさと皆のとこ行かないと」
「ほらそういうとこだ! 櫻子はいっつもおどおどぐだぐだしてて、そんなものをはっきり言える奴じゃねぇんだよ!」
「なんか傷つくんだけどそれ……ああもう、ほら! 匂いだって一緒でしょ、早く行こう!」
面倒くさくなってヒカリちゃんの顔をわたしの胸に押し付けた。この子いつも隙あらば匂いを嗅いでくるし、これで納得する筈だ。
「……ふごふご、た、確かに櫻子の匂いだ! よし、じゃあ行くか!」
「……切り替え早いのはいいけど、鼻血拭いてからいきなよ」




