30.「トマトジュースとエミリア」
【馬場櫻子】
わたしのモーニングコールから本当に五分で事務所に来たヒカリちゃんは、昨日八熊さんとしたのと同じやりとりをしていた。
「いや、遅刻じゃねぇよ八熊、6時50分ジャストだろ」
「だから勝手に延長するな。あと八熊さんだ」
これでようやく全員揃ったかと思ったけど、よく考えると肝心の社長がまだ来ていない。まさか社長も遅刻してくるとは。
「三バカも来たことだし、とりあえず全員そこに座っていろ。もうすぐワンマンバカが着く」
「言われなくても座るわ八熊ぁ、つーかヴィヴィアン遅刻かよ、なってねぇな。時間を守れねぇやつはクズだぜ」
「ひ、ヒカリちゃん、正気なの?」
さも自分は遅刻していませんという顔をしているが、大遅刻である。まだ寝ぼけているのだろうか。
「櫻子、モーニングコール助かったぜ。何とか遅刻せずに済んだからなぁ」
「あのね、落ち着いて聞いて? ヒカリちゃんは遅刻したんだよ?」
「まあ、そういう見方もあるな」
「ほかにどういう見方が!?」
喋りながら隣に座るヒカリちゃんがぐいぐい詰め寄ってくるから、わたしもわたしでぐいぐい押し返す。
テーブルを挟んで向かいのソファに腰掛ける二人は、ニヤニヤするだけで助ける様子もない。
その時、視界の端から赤黒い煙のような物が現れて、ソファの前後をすり抜けて行った。ヒカリちゃん達もほぼ同時に反応して、驚いたように煙を目で追った。
煙は八熊さんの隣でグルグルと渦を巻いて段々と収縮していき、最後には人の形になった。
「──おはよう諸君、此方がヴィヴィアン・ハーツである」
わたしの目の前で、そう名乗った幼女は腰に手を当てて胸を張った。真っ白な肌に真っ赤な瞳。年齢は7、8歳前後だろうか、髪の毛がセンターで綺麗に黒と白に分かれている。
この人間離れした容姿の幼女が、あのヴィヴィアン・ハーツ? なんで、幼女なの?
「おはようじゃねぇよヴィヴィ。遅刻だぞ」
隣でタバコを吸っていた八熊さんが、タバコを灰皿に押し付けた。ヴィヴィというのは、この幼女のことで間違いないだろう。じゃあやっぱりこの子が本当にヴィヴィアン・ハーツ──
「なんじゃバンビ、せっかく此方が格好良く登場したのに水を差すでないわ。さっきの霧になるやつ凄い疲れるんじゃぞ? あれ、なんか内臓の位置おかしいの……」
幼女は何やらぶつぶつ言いながら下腹部に手を当ててうんうん唸りだした。バンビというのは八熊さんのことなのか、いったい何が起こっているのか一つも分からない。
「うむ、直った。バンビ、いつもの」
何か納得したようにスッキリした顔になった幼女は、八熊さんの方を見もせずに片手を突き出した。そこに八熊さんが何処から取り出したのか紙パックのジュースを握らせた。
「やはりトマトジュースはここのメーカーが至高よなー」
そしてそのままトマトジュースを飲み始めた。恐るべき自由である。まだ自己紹介の途中ではなかったのか。
「おいヴィヴィアン、櫻子が引いてるだろうが。ちゃきっとしろよな」
いつのまにか大幅にわたしの領土を侵攻していたヒカリちゃんが、呆れたような声でそう言った。
「すまんすまん、一瞬何しに来たか忘れかけておったわ。どこまでいったかの?……えーと、そう! 此方がヴィヴィアン・ハーツである。此方が宇宙で一番可愛い! 以上」
事務所内が数秒、沈黙に包まれた。以上ってことは、これ以上待っても何も出ないということでいいのだろうか。まだ名前とトマトジュースにこだわりがあることくらいしか分かっていない。
「大したこと言わないここに極まれりですの」
「私達の時もこれ言ってたけど、まさか会社名の由来だったとわね〜」
カノンちゃんとカルタちゃんが、まったく興味なさげに呟いた。ヒカリちゃんにいたっては、何故か私の肩に顔を埋めて鼻息を荒げている。いったいどういう感情なの?
「なんじゃお主ら、可愛げの無い反応じゃのう。ちょっと凹むわ」
再びヴィヴィアンさんが、不貞腐れたようにトマトジュースを飲み始めた。八熊さんも新しいタバコに火を付けている。
これはわたしから行かないと話が進まないパターンと見た。
「……あの、ヴィヴィアン、さん?」
「なんじゃ新入り! サインか!?」
話しかけられるのを待っていましたと言わんばかりに、凄い勢いでトマトジュースから口を離した。というか、サインってなに?
「いや、初対面で不躾な事を聞きますけど、なんで幼女なんですか?」
『なんで幼女なんですか?』わたし史上始まって以来の素っ頓狂な質問だった。
「……ああ、ちょっといろいろあっての。まあ安心せよ、気持ちはボンキュッボンのナイスバディゆえ」
素っ頓狂な質問に相応しく、素っ頓狂な答えが返ってきた。
……どうしよう、この空間頼れる人がいなさ過ぎる。
「つーかヴィヴィ、なんでこんなに遅かったんだよ」
「いや、それがのバンビ? 昨晩急にローズから連絡があったと思えば……あ、まずい、忘れておった」
急に額に汗をかき始めたヴィヴィアンさんが、事務所の本来の出入り口に向かって歩き始めた。
ガチャリ、と扉が開く音がしてヴィヴィアンさんが再びわたし達の前に戻って来た。正確にはヴィヴィアンさんともう一人がだ。
「うむ、紹介しよう。魔女協会から派遣社員として来てくれることとなった、えーと……」
「──エミリア・テア・フランチェスカ・ヘルメスベルガーです。別に馴れ合うつもりはありませんので、よろしくしなくて結構です」
ソファに座るわたし達全員の視線が、彼女に釘付けになった。昨日ローズさんが近いうちに一人魔女を送り込むとは言っていたけど、早すぎる。しかもなぜかわたし達に敵意剥き出しである。
「おいこらてめぇ、随分ご挨拶だなぁ。喧嘩してぇなら素直にそう言えや」
となりのヒカリちゃんは既にお怒りモードだ。目の下がピクピクしていて怖い。
「……育ちが知れますの」
「……」
カノンちゃんもヒカリちゃんほどではないにしろ、機嫌が悪そうに左眼で派遣魔女を睨み付けている。カルタちゃんは何を考えているのかわからない眠たそうな目で、静かに座っている。
この剣呑な雰囲気を、大人組が解決してくれるかと淡い期待を寄せたけど、八熊さんはヴィヴィアンさんの方を睨み付けてタバコを蒸しているだけで、ヴィヴィアンさんは罰が悪そうに頭を掻いてどこか虚空を見つめている。
「──あなた達は、何故この仕事を選んだんですか?」
結局口を開いたのは、派遣魔女のエミリアさんだった。灰色の髪に映える、深紅の瞳が、私たちを射抜くように見つめていた。
「はあ? 協会に入らなくても思う存分クソ魔獣をぶっ殺せるからだよ」
エミリアさんの問いに、まずヒカリちゃんが答えた。わたしも初めて聞いたけど、今のヒカリちゃんはなんだか少し怖い。
「無論、協会の魔女よりも私の方が優れている事を証明するためですの。一応言っておきますが、こちらこそ協会の犬と馴れ合うつもりはございませんわ」
次いでカノンちゃんが答えた。昨日も感じたけど、やっぱりみんな何かしらの因縁が協会とあるみたいだ。妙に協会を毛嫌いしている。
「私は〜魔獣殺すだけで楽に稼げるし〜ゲームもいっぱいできるし〜」
カルタちゃんはブレないな。正直言ってちょっと不純な動機に聞こえなくもないけど、おそらく本人は一切そんなつもりはないだろう。
「……そんな考えで」
ぽつりと、エミリアさんが呟いた。握りしめた拳が震えるのをわたしは見た。
「人々の守護はっ!! 魔女にしかできない神聖な行為です!! あなた達みたいな品性下劣な連中に務まることでは断じてありませんッ!!」
可憐な見た目からは想像もつかない、絶叫にも似た怒鳴り声がオフィス内に響き渡った。
エミリアさんの息は荒く、目は血走っている。あまりの迫力にヒカリちゃんすらたじろいだ。
「……どうして、さも楽しいことのように、こともなさげに、魔獣を殺すなんて言えるんですか……」
肩で息をしていたエミリアさんは、まるで風船が萎んだように、先程とは打って変わって悲しそうな声でそう言った。
「……なに訳わかんねぇこといってんだよ、魔獣は人間を殺すんだよ! そのクソどもをぶっ殺すのが楽しくて何が悪ぃってんだ!」
ヒカリちゃんが座ったままテーブルを足で蹴飛ばした。カノンちゃん達にテーブルが当たりそうになったけど、カルタちゃんがそれを足で押し止めた。
「彼らも好きで魔獣になったわけではないでしょうっ!? その手で、愛する家族を手にかけたかも知れない彼らに、どうしてそんな酷いことが言えるんですか!?」
──凍りついた。わたしだけじゃなくて、ヒカリちゃん達もだ。エミリアさんの必死の訴えに、今の短い会話の内容だけで察してしまったからだ。
『彼らも好きで魔獣になったわけではない』って、それってつまり──
「……魔獣は、人間、ですの……?」
カノンちゃんが、震える唇から声を振り絞った。その瞬間、ヒカリちゃんがわたしの手を痛いくらい強く握ってきた。
見るとヒカリちゃんの顔は青ざめて、目の焦点が定まっていない。
「……っ!? あなた達、そんな事も知らずに今まで過ごしてきたんですか……最低ですね、あなた達も、この会社も」
エミリアさんはそう吐き捨てると、事務所のドアを叩きつけるように閉めて出て行った。半ば放心状態になったわたし達を残して。
「あー、やっちまったな」
静まり帰った部屋に、八熊さんの疲れた声が響いた──




