281.「レイチェルと補佐官」
【バンブルビー・セブンブリッジ】
──あの日俺は、いつものように部屋で日記を付けていた。
〜400年前〜
──ドンドンドンッ!!
けたたましいノックの音に、思わずペン先がブレた。あらぬ方向に走ったインクが、日記に染みを広げる。
「……クソ、誰だ! 今何時だと思って──」
「バンブルビー! 大変なの、レイチェルが鴉を抜けるって!!」
扉を開けて叫ぶようにそう言ったのは、末の妹のローズだった。
「落ち着けローズ、どういうことだ。レイチェルが鴉を抜けるなんて……いったいどれだけ飲んだらそんなこと」
「違うの!! ほんとにレイチェルが城を出ていっちゃったのよ!! お願いだから連れ戻して……アイビスと何かあったみたいで……私たちじゃ……」
今にも泣き出しそうなローズの顔を見て、ようやく事の深刻さを理解した。
俺は震えるローズの脇を通り抜けて、レイチェルを追った。
城門前に行くと、何人かの人影が見えた。
「ホアン、バブルガム、サンドバッグ共! 何があった、レイチェルはどこ行った!!」
駆け寄ると、土埃にまみれた妹達が助けを求めるように俺を見た。ホアンやバブルガムは多少服が汚れた程度だが、ルクラブやトーラス達は血を流していた。
(レイチェルがコレをやったのか!? ありえない……あいつに限って家族を傷つけるような真似──)
「バンブルビー、レイチェルは出て行っタヨ……止めようとしたケド……ゴメン」
「……む、むはぁ……レイチェルがぁ、レイチェルがぶったぁああ!!! びえええええ!!!!」
初めて見るくらい落ち込んだホアンに、頬を腫らして大泣きするバブルガム……心臓が早鐘を打って、血の気が引くような光景だった。
「バンブルビー姉様、レイチェル姉様はアイビス姉様と喧嘩したみたいだみょん……アイビス姉様の部屋から言い争ってる声が聴こえて来たと思ったら、レイチェル姉様が鴉を抜けるって……」
「騒ぎを聞きつけてやってきたホアンやバブルガムはもちろん、直属の部下である我々も止めようとしたのだが……このザマだ」
ルクラブもトーラスも、酷い有様だった。怪我は大したことは無い……きっとレイチェルに傷つけられたという事実に打ちのめされているのだ。
「レイチェル姉様がどこに向かったかは分からないわ。たぶん、もう見つけられないと思う」
気の強いリアも、これまで見た事がないような弱気になっていた。
俺は一刻も早くレイチェルを追いかけて、何があったか聞き出さないといけないと思った。城門を出ようと足を踏み出したとき、誰かに肩を掴み止められて振り返った。
「…………」
いつの間にか駆けつけたエリスは、いつも通りの無口で、しかし俺を引き留めようとしているみたいだった。今のレイチェルを追いかけるのは危険だと、目がそう言っていた。
「……大丈夫だ。俺は、あいつの補佐官だから」
エリスの手を振りほどいて、俺は走り出した。微かに残るレイチェルの魔力の残滓を辿って。
──レイチェルはすぐに見つかった。城から1番近い人間の街へ続く街道、その中間地点でレイチェルは空を見上げて、立ち尽くしていた。
「……お前でも城を抜け出すことがあるんだな」
息を整えて、俺はレイチェルにそう言った。レイチェルは空を見上げたまま、ぽつりと返事を返した。
「……そういえば、いつもと逆だね。私のお迎え係は誰に頼まれたの……アイビス? ホアン? ヴィヴィアン? ウィスタリア?」
「俺はまだ何があったか知らない……けど、帰ろう。みんな心配してる」
「皆が……なんの心配をしてるの?」
「……何のって、お前のことに決まって──」
「ねえ。バンブルビー、ずっと私に秘密にしてる事があるよね」
ずっと空を見上げていたレイチェルが、俺の方に振り向いた。落ち着きかけていた心臓が、跳ねる。
「……なんの事だ」
「なんの事って……わたしのことだよ……大切なことだよ!! どうしてずっと隠してたの!?」
──バレてる。直感的にそう思った。俺がレイチェルに想いを寄せている事が、どういう訳かバレてしまっている。
(……けど、だとしても、だからってなんで……)
「……お前はアイビスのことを好きだったから……こんな事言っても、邪魔になるだけだろ。知らなくていい事も……あるんだよ」
「……それ、本気で…………本気で、言ってるの……?」
レイチェルは胸を抑えて、呼吸を荒くしながらそう言った。目から溢れた涙が、頬を伝って地面に落ちる。
(……なんだってんだよ……なんでお前がそんな顔……俺じゃなくてアイビスを選んだのは……お前だろ、レイチェル)
「……返事してよ、バンブルビー……いまの、本気で言ってるの!?」
パニックだった。自分の中で整理をつけたと思っていた気持ちが、雪崩みたいに崩れて理性を押し流した。
「知ってるだろ。俺はつまらない冗談は嫌いだ」
その直後、レイチェルはクロバネで俺を吹き飛ばした。
別に、攻撃が見えなかったわけじゃない。
避けれなかったのは単純に、まさかレイチェルがそんなことする筈ないって思ったのと、攻撃の寸前にあいつの口が『嘘つき』と動いたのを見て、固まってしまったからだった。
地面に投げ出され薄れゆく意識の中、いつもより大きな満月が俺を見下ろしているのが見えた。それが眩しくて、俺は目を閉じた。誰かが傍で、何か大切なことを言っていた気がした──
──レイチェルと、レイチェルを捜索していたエリスやルクラブ達11人がジューダスに殺されたのは、それから一月後の事だった。
レイチェルと妹達は死に、殺したジューダスは行方知れず。アイビスは頭を割られて瀕死の状態で帰ってきて、ろくに記憶もないどころか半狂乱だった。
俺は、どうしてこうなってしまったのか、分からなかった。
ただ愛した女の幸せを願っただけだった。自分の想いは、紙とインクに込めて胸に閉まっていた。
どうしてレイチェルはあの日アイビスと喧嘩をしたのかも、『嘘つき』の言葉の真意も、ジューダスの裏切りの理由も、これから生きていく意味も……もう、何もかも分からない。
「…………」
部屋の外から、誰かが言い争う声が聞こえる。
(……バブルガムと、マゼンタか……うるさいな……)
ただ耳障りにしか感じなかった。今はもう、揉め事の仲裁なんてする気力も理由も、何も感じられなかった。
『──わたしの補佐官として、最後の頼みよ』
不意にあの日の記憶が頭をかすめた。薄れゆく意識の中で、レイチェルが俺に何か言っていた気がする。なんて言っていたんだっけ……レイチェルはあの時、涙を流しながら最後に──
『──もう鴉には戻らない。下の子達は、バンブルビーが見てあげて……私の補佐官として、最後の頼みよ』
「……なんだってんだよ……レイチェル」
俺はベッドから起き上がって、しばらく触りもしなかった部屋の扉を押し開けた。ただあいつの補佐官として、責任を全うするために──




