279.「崑崙宮と西王母⑨」
【バンブルビー・セブンブリッジ】
──ホアンに付き合って崑崙宮を訪れたのがだいたい400年前。あの時レイチェルと一緒にキーシャオ師匠の弟子になって、ほんの数ヶ月だけここで過ごした。
その時俺とレイチェルに割り当てられた部屋は、驚く程何も変わらずに今も残っている。
400年間、誰かがずっと掃除や手入れをしてくれているのだ。新しく入った弟子に割り当てることだって出来たはずなのに、師匠はそうしない。
『お前達はもう立派な崑崙の弟子だ。いつでも帰ってくるがいい』
400年前に言われた言葉を、俺はきっと忘れない。
師匠は多くを語らない人だけど、その分思いを行動で示す人だ。
それに比べて俺はどうだろうか……口下手なうえに、思い切った事も出来ない。レイチェルに好きだと口で言うことも、行動で伝えることも出来なかった。
いいかげん、こんな自分を変えないとな──
* * *
──身体が宙に浮いているような浮遊感と、何だか安心する温かさ……一定のリズムで刻まれる揺れが心地よくて、ずっとこうしていたい……。
「──部屋に着きましたよバンブルビー。中、入りますからね」
「……?……ああ、うん、頼むよ」
彼の声に意識が引き戻される。あともう少しで、夢の世界へ沈んでしまうところだった。
辰守君は両手の塞がったまま器用に扉を開けると、部屋の中に入って俺をベッドに寝かせた。
今は昼の何時頃だろう……寒さを遮る為の厚手のカーテンは、外の光を殆ど遮ってしまうから部屋が薄暗くて判断がつかない。
視界の端で、辰守君が部屋の行灯に火をつけているのが見える。ぼんやりとしたオレンジ色の光が部屋を暖かく染めた。
「……ごめんね……みっともないとこ見せちゃって」
「気にしないでください。俺はバンブルビーの補佐官ですから」
「……はは ……お給料、はずまないとね」
部屋の天井を見上げながら、気持ちのいい倦怠感と眠気に抗う。
このまま目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうで、けど、そうしたら辰守君はこの部屋を出ていってしまう。それは嫌だった。
「俺、バンブルビーの普段の頑張りはちゃんとわかってますから。俺だけじゃなくて鴉の皆も……だから、せめて補佐官の俺には目いっぱい頼って下さいね。そうでもしないと、お返しもできませんから」
辰守君は水差しとグラスをベッドの脇のサイドテーブルに移動させながらそう言った。
不意に、彼の一つ一つ言葉を丁寧選んでいるような、ゆっくりとした話し方が素敵だと思った。
酔っているせいなのか、色んな感情が優先順位を忘れて渦巻いている。何か返事を返さないといけないのに──
「……じゃあ……甘えてもいいの?」
誰が言った言葉なのか、数秒間考えて……自分だと気づいた。
「……」
「……」
沈黙が痛かった。恐る恐る辰守君の方を見ると、目が合って、直ぐに逸らしてしまった。
(……何で困らすようなことを……飲み過ぎだよバカ)
後悔と気恥しさが胸の辺りで暴れている。もう布団をすっぽり被って隠れてしまいたい。
「──あの、どうしたらいいですか?」
けれど、辰守君は酔っ払いの無茶ぶりに、真剣に向き合おうとしてくれた。
意表を突かれたのと、まったく酔いが覚めていないのが相まって、頭が回らない……どうしたらって、どうしたらいいんだよ。
「……手」
「……て?」
「……手……握ってほしい……です」
『気にしないで。冗談だよ』『飲みすぎたみたい……ごめんね』『辰守君のこと、好き』『こっちへきて、もう一度抱き締めて』
……次から次へと湧き上がってきて、頭の中をグルグル回る言葉、そのどれを口に出せばいいのか分からなくて、咄嗟に手を握って欲しいだなんて言ってしまった。
(……セリフ間違えた気がする……なんか敬語だったし)
「……昔、まだ小さい子供の頃ですけど。俺が熱を出して横になっていたら、母親がこうして手を握ってくれました。すごく、安心したのを覚えてます」
辰守は床に膝をついて、ベッドに横になる俺の手をそっと握ってくれた。
「……素敵な、お母さんですね」
「はい……というか、何で敬語なんですか」
「……いや、たぶん恥ずかしくて」
「誰かに甘えるコツは、そういうことを考えない事だと思いますよ」
言われて確かにと納得した。俺の胸の中にある言葉は、どれもが俺の本音なのだ。どれを選べば相手を傷つけないとか、気を使わせないだとか、そういうことを考えるのがダメなのだ。
「寂しいから、もっと傍にきてほしい」
「え、既に結構近いと思うんですけど」
「……横、空いてるよ」
困惑した辰守の顔を見たら、少し気後れしそうになったけど弱腰は押し込めた。
ベッドの上でゴロリと身体を転がして、辰守君が入れるスペースを空けた。ちょっと間抜けな動きだったかもしれないけど、気にしない。
「……えっと、じゃあ失礼します」
辰守君がベッドに上がって、横になった。昔レイチェルがいた場所に、今は彼がいる。
「……甘えてもいいんだよね」
「ま、任せてください」
「……じゃあ、苦しいから服……脱がせて欲しいな」
「なんですって」
「……聴こえてたよね」
心臓がバクバク音を立てている。酔ってるせいなのか、いつになく大胆な自分に驚いているせいなのか……分からないけど、もうそんなのどうだっていい。
「……」
辰守君がベッドの上で起き上がって、俺を見下ろした。しばらくしてから、彼の手が俺の服に伸びる。首元の留め紐、胸元の留め紐、1つずつ丁寧に外されていく。
「……次、下から脱がせて……」
辰守君の喉がゴクリと動いたのが見えた。それを見て、つい舌なめずりをしてしまった。ブラッシュじゃあるまいし、何ていやらしい事を……いや、考えちゃダメだ。
辰守君はゆっくりと両手を太ももの辺りまで下げて、裾を掴んだ。
「……ん」
少しお尻を浮かせると、辰守君はグイグイと裾を持ち上げた。
服がだんだんせり上がってくる。胸のあたりで1度つっかえて、仕方なく少し手を貸した。その後は頭からすっぽり服が脱げて、バンザイしたみたいな体制で下着姿になった。
ただ服を脱がせて、ただ服を脱がされただけなのに、部屋の中には荒い息遣いが行ったり来たりしていた。
「……さっき、何人かに房中術に誘われてたよね」
「……え、はい……けど、あれ実はなんの事かサッパリで……」
「房中術っていうのは、男女が肌を重ねて行う修行の事だよ」
「そ、そんな修行があるんですか……」
辰守君は驚いた様子で、色々想像したのか顔を赤くしている。
「……今からやってみない?」
「……いや、さすがにそれは……俺にはフーとかスカーレット達が居ますから……」
辰守君はほんの一瞬迷ったような顔をして、直ぐにそう言った。なんだか、フーやスカーレット達にあっという間に負けちゃった気がして、悔しかった。
「……甘えていいって言ったの、嘘だったのかな」
「た、確かにそう言いましたけど、やっぱり……」
辰守君の服を掴んで引き寄せて、俺は彼にキスをした。けれど、直ぐに辰守君に引き離されてしまった。
「大丈夫だよ……修行、だから」
「……修行」
「そう……浮気じゃないよ」
そう言って俺は彼の首へ腕を回した。頭を引き寄せて、もう一度キスをする。
今度のキスは、拒まれなかった──




