235.「鴉と魔女狩り⑥」
【平田 正樹】
──あの日からおよそ1ヶ月。俺はこころから徹底して距離を置いていた。
詳しくは知らないが、あいつには真剣に交際している相手がいるのだし、俺のような存在は色々な意味で危ないと思ったからだ……というのは実は理由の半分で、より本心に近い方は、単純にあいつの顔を見ると胸の奥から泥のようなモノが混み上がってきて、酷い気分になるから。ただそれが怖かったのだ。
こころは何を考えているか知らないけど、このひと月の間に何度か話しかけてきたりもした。もちろんろくすっぽ取り合うことはしなかったし、こころもそんな俺の態度を見て、しつこく絡んできたりはしなかった。
これでいい。このまま時が流れていけば、俺たちが共にした1年という時間も段々と薄れて、直に思い出すことも無くなっていくはずだ。
いつしかあいつの声も忘れて、顔も忘れて、名前も忘れて……そうすれば、この胸に居座って毒を吹き出す黒い獣も、どこかへ消え去ってくれる。そんな気がするのだ──
「──お前、こんなとこで何してんだ……」
時刻は午後23時頃。バイト先からの家路。まるでバケツをひっくり返したような大雨だった。
ちょうど、初めてこころが俺の家にやってきた時に降った夕立のような、そんな雨の中……俺の家の玄関先にずぶ濡れのこころが立っていた。
大きなキャリーバッグを傍らに、こころはしばらく押し黙ってから、ぎこちなく笑った。
「……家を、追い出されてしまいました……」
これまでの1年間で、こんなにも下手くそな笑顔は見たことがなかった。バラバラになった花弁を、むりやりテープでくっつけて作った花のような、悲痛な表情。
頭の先からつま先まで、全身余すことなく雨が伝っていたからハッキリとは分からなかったけど、その時のこころは泣いているようにも見えた。
「……とにかく中に入れ」
俺が玄関の鍵を開けてそう言うと、こころは小さく「お邪魔します」と言って家へ入った。
玄関、こころが立ち止まった所には、全身から伝った雨水が水溜まりをつくった。いったいいつから家の前につっ立っていたんだろうか……。
「……直ぐに風呂の用意するから、これで身体をふくなりして待ってろ。そのままじゃ風邪まっしぐらだぞ」
俺は大量のバスタオルを玄関のこころに渡して、猛スピードで風呂に湯を張った。
玄関に戻ると、こころが膝崩れになったようにへたりこんでいた。
「……おい大丈夫か!?」
俺は慌ててこころに駆け寄って、様子をうかがった。身体が震えて、呼吸は酷く小刻みになっていた。顔からも血の気が引いて、土気色になっている。完全に過呼吸だ──
「落ち着けこころ。ゆっくり息を吐くんだ。少しづつでいい……大丈夫だから……な?」
過呼吸のせいで忙しなく揺れる背中に手を当てる。俺は努めて落ち着いた態度でこころにそう言った。内心は俺だって相当なパニックだった。
俺の言葉に反応して、こころの呼吸のリズムが少し変わった。息をゆっくりと吐き出そうと、必死に呼吸と戦っている。
少しすると、こころがぐらりとバランスを崩して倒れそうになったので、咄嗟に抱きとめた。力ない両手が、俺の背中に回された。浅い呼吸のせいで手は痺れてしまっていて、小さな握りこぶしが俺の背中をズルズルと滑り落ちていく。
「……大丈夫だ。大丈夫だからな。ここにいるから……」
こころを抱き締めてそう言った。少し迷って、俺はこころを抱き上げた。ぽたぽたと廊下に雫を垂らしながら、浴室へと向かう。
「とにかく、このままじゃほんとに風邪ひいちまうから、風呂に入って身体を温めろ。服はこっちに持って来とくから……わかったか?」
こころはどこか気まづそうに、伏し目がちに俺の顔を見て、こくりと頷いた。
こころの呼吸がだいぶ良くなったのを確認して、俺は浴室前の脱衣所を後にしようとした、その時……。
「……あの時、みたいですね……あの日も、こうやって……抱き上げて、運んでくれました……」
脱衣所の床に座り込んだまま、こころがそう言った。
あの時……初めてこころが家に来た日の事を言っているんだとすぐにわかった。
「……一年経っても、相変わらず手のかかるやつだな。このバカめ」
「……えへへ、ごめんなさい。ダーリン」
少なくとも、冗談混じりの悪態に笑って返すくらいには落ち着いたこころを見て、俺は改めて脱衣所を後にした。
一年の間にこころが家に来る機会は何度もあった。そして、何度やっても虫だのカエルだのに怯える割には庭仕事を手伝いたがった。
夏の庭仕事は重労働だ。どうやっても汗と泥にまみれてしまうから、こころは着替えを何着か俺の家に常備していた。
着替えの詰まった紙袋を脱衣所にそっと置いて、浴室の曇りガラスに目をやった。
「……ダーリン、いるんですか?」
「ああ、着替え置いとくからのぼせないうちに出ろよ」
「……はい。ありがとうございます」
浴室の扉を挟んだ声は少しくぐもっていたけど、もう随分と落ち着いた様子だった。
〜20分後〜
風呂から上がって着替えたこころは、見た目にはすっかりいつもの調子を取り戻したように見えた。
俺はこころを居間に通して、ようやく本題に入った。
「で、こんな時間に、こんな大雨の中、いったい何の用だったんだ?」
ここひと月の素っ気ない態度と、ついさっきまでの心配とが、内部紛争を起こしたようなトーンでそう言った。俺自身、今の自分の感情に整理が付けられない。
「……はい。先程も言いましたが、実は家を追い出されまして……ここ数日は、ネットカフェなんかに寝泊まりしていたんですが……」
「ネットカフェって、泊まれるもんなのか?」
「ええ、わたくしも利用するようになって初めて知ったのですが、小さな個室を貸切にそのまま泊まることもできるのです」
「なるほどな。ようやく21世紀になった実感が湧いてきたぜ」
「ダーリン……もう2003年ですけど」
「…………で、何で家を追い出されたんだよ」
「あ、話を逸らした」
「話を元に戻したんだよ!!」
別に両親のせいにする訳じゃないが、俺は俗世の流れに乗るのが苦手だった。ここ数年で急激に普及してきた携帯電話もまだ持つ気になれないし、インターネットカフェなんてもってのほかだ。
なんで喫茶店でインターネットをする必要があるんだよ……。
「……あの、以前ダーリンにお食事に誘っていただいた事があったじゃないですか」
「……ああ、そんな事もあったな」
当然覚えている。この一ヶ月、ずっとその日のことが脳裏に焼き付いていたんだから当然だ。『そんな事もあったな』とは、どの口が言うんだという話だ。
事ここに至って、自分でもどうしてこんなにひねているのか……全く嫌になってくる。
「あの日、実はわたくし婚約者の方とお食事に行っていたんです……」
婚約者……つまり、あの時指輪を差し出していた男がそれだ。ということはなにか……こころのやつ、そんな相手がいながら俺と偽装交際をしていたってことか?
「あの方とは、前々から何度かお食事をする機会があって、あの日は大切な話をするためにわたくしからお誘いしていました」
「……もしかして、ここまで結婚の惚気話をしに来たのか?」
「……いえそんな、逆ですよ……」
「……逆?」
「……あの日、わたくしは彼に婚約の解消を願い出ました。どうしてもあの方と一緒になることができない理由があったんです」
「……いや、でもお前……指輪を貰ってただろう。目に涙まで浮かべて……あれは何だったんだよ」
語るに落ちるというか、ついさっきとぼけたフリをしたくせに、やたらとあの日の詳細を語る俺は酷くマヌケに見えただろう。ただただ、あまりに予想外の話に全く頭が回っていなかったのだ。
「あれは、婚約解消を持ち掛けた後に、あの方が考え直して欲しいといきなり指輪を取り出したんです……あまりに突然だったのと、指輪まで用意してくれていた罪悪感で、つい涙が混み上がってきてしまって……」
段々とあの日俺が見た光景に真実が上書きされていく。それに伴って、ここ一ヶ月俺を苦しめた黒い感情も、少しづつ小さくなっていくのを感じた。
「……ダーリンを追いかけた後、あの後もしつこく求婚を迫られまして、わたくし つい指輪を強かに川へ放り投げたのです」
「なんちゅうことを……」
「ええ。さすがにそこまですると相手もお怒りになって、ようやく帰ってくれました。けれど、それがお父様とお母様の耳に入り、勘当されてしまったのです」
「……今ひとつ、婚約者やら両親やらの相関図が想像できないんだが……」
普通、娘が婚約者を手痛くフッたとしても、勘当する親なんて中々いないのではないのだろうか。何となく、そうなってしまったロジカルを読み解く為にはこころの家庭の内情が不可欠な気がした。
「……わたくし、いわゆる妾腹の子なんです。貧乏な家庭に産まれた母は、妾奉公としてお父様の元でお仕えしていました。その母も、わたくしを産んで直ぐに亡くなってしまいましたけれど……」
「……妾奉公って、21世紀だぞ今」
「ええ、妾奉公なんて言っても、実際のところはただの愛人契約と何ら変わりません。母は正妻の……お義母様からは酷く疎まれていた聞きますし、家の体裁を保つ為の見栄みたいなものでしょうか……ですからわたくしも、桐崎の家では立場が強くありません。他の妾腹に比べても器量だけはこのとおりずば抜けて良かったので、そこまでぞんざいに扱われるということもなかったのですが……先日、政略結婚の相手をこっぴどくフッてしまいましたので……」
今聞きかじっただけでも、桐崎家のお家事情が複雑なことは容易に分かった。妾奉公とかいう旧態依然なシステムが都合よく容認されていたり、妾の子であるこころも、政略結婚の道具として育てられたのでは、というのが俺の所感だ。
でなければ、自分の娘をこんなにも容易く勘当できる親がいるだろうか。
「……どうして婚約解消なんてしたんだよ。そんなことして、こうなる事はお前が一番よく分かってただろ」
「だって、全然タイプじゃなかったので」
俺は持ってきていた麦茶をようやくコップに注いで、テーブルに置いた。こころは『おあずけされてるのかと思ってました』と一息に飲み干して、俺もそれに続いた。美味い。夏用の水出し茶葉を使った麦茶は、非常に清涼で飲みやすく、ホッとする味だ。
──で、全然タイプじゃなかったとか言ったか?
「…………タイプじゃなかったからフッたのか?」
「はい。タイプではなかったのでお断りして、しつこかったので結婚指輪を放り投げました」
「……くく、ほんとめちゃくちゃな奴だなお前は」
「えへへ、そんなに可愛いですか? まあよく言われますけど……」
「会話のキャッチボールをしろや」
こころのふざけた話に一気に力が抜けてしまうと、なんだか急に腹が減ってきた。思えば昼以降何も口にしていない。
「悪い、腹が減っちまったからちょっとつまめるもんでも探してくる。お前もなんか食べるか?」
「あ、それならわたくしダーリンのトマトパスタが食べたいです!」
「……もうすぐてっぺん回るんだぞ、こんな時間にそんなしっかり食べて大丈夫なのか?」
「サラダはノーカウントですから!」
「トマトパスタはサラダではねぇよ」
なんて言いながら、俺は内心すこし浮き足立って炊事場に向かった。
初めて家に来た時に振舞ったトマトパスタ、最初は酸っぱいと文句を垂れていたのに、今ではこころの好物になっている。
俺も俺で、こころにトマトパスタを振る舞うのが好きになっていた。美味そうに食べるこころを見るのが、俺は──
「──っ、こころ?」
炊事場に向かおうと廊下に出たところで、不意にこころが後ろから抱きついてきた。
「……嘘です。タイプじゃなかったとか、関係ありません」
「……こころ、よせ……」
本当は分かっていた。ただ、気づかないフリをしていたんだ。こころの気持ちにも、自分の気持ちにも。
「わたくし、ダーリンが好きです……大好きです。どうしようもなく愛しています……あなた以外、考えられません……」
俺の胸に回された手に、ぎゅっと力が籠った。見ると、華奢な指に力が入って指先が白くなっている。自分の偽らざる気持ちを他人に伝える事の恐怖は、痛いほどに知っているつもりだ。
だって、本心を自分で認めることですらこんなにも怖いんだから。
けれど、こころは踏み出した。踏み越えれば一気に破綻しかねない俺たちの不文律を侵してみせた。偽装交際の絶対条件である、お互いを愛してはいけないというルールを、破ってしまったと宣誓した。
そんなこころに、俺はどう応えるべきなのか。そんなの決まっている。
俺が一々事を難しく考えて空回りするきらいがあるのは自覚している。が、翻ってそれは己の感性に反してしごくシンプルに考え行動すれば、概ね正解の道を歩めるということなのだ。
つまり、この場合、目には目を、歯には歯を、正直な告白には、正直な告白を……だ。
俺はそっとこころの腕を解いて、後ろに向き直った。不安げな顔、ハイライトの入っていない瞳には涙が浮かんでいた。
「──俺もお前のことが好きだ。俺は、桐崎 こころを愛している」
こころに口付けをした。ゆっくりと、ぎこちなく、あっさりとしたキス。
ファーストキスはあまりにも唐突で、あまりにも呆気なく、けれど、涙が出そうになるほど、幸せな行為だという事を教えてくれた。
「……あの、提案なんですけど」
「……なんだ?」
「その、トマトパスタはもう少し後にしませんか?」
「……実は、俺も今同じこと言おうとしてた」
こうして、俺とこころの関係は終わった。
偽装交際という、約一年の関係が。
そして、これから始まるのだ。俺たち二人の、新しい関係が──
* * *
【イース・バカラ】
──鴉に入って間もない頃、アビスに言われたことがある。
「銀髪の髪に特級の身体強化魔法を使う魔女を見つけたら、すぐに私に報告してね。そいつはジューダス・メモリーっていって、この世の全ての苦しみを味あわせて殺さないといけない奴だから」
最近読み進めているバンブルビーの日記にも、しばしばその名前は出てきた。
『最近、何かと理由を付けてジューダスがレイチェルに会いに来る。ロード同士がしょっちゅう会ってたんじゃ、隊を4つに分けた意味がないんじゃないのだろうか。レイチェルは嬉しそうだからいいけど……そういえば、レイチェルがジューダスの銀髪を褒めていた。長くてとても綺麗だと。俺も、伸ばしてみようかな……』
ジューダス・メモリーは掴みどころがなかった。理解できない……って言った方がいいのか、バンブルビーの日記に書いてある内容から察するに、同じ四大魔女のレイチェル・ポーカーに惚れてたのは確かだ。
そして、並外れた力をもってる割には情けも容赦も持ち合わせ、なんなら甘っちょろさが際立っているような、そんな奴だ。
だってのに──
『レイチェルがジューダスに殺された』
レイチェル・ポーカーが死んだ日の日記は、たったこれだけだった。達筆な文字が所々涙で歪んで、ページの端にはインクと血が滲んでた。
裏切りの魔女の話は有名だし、痴情のもつれだってのは知ってた。けど、本当にジューダスがそんな事で他人の命を奪うような奴だとは、実際目の当たりにするまでは納得出来なかった。
「──近年稀に見る強敵だったわ。あなた達、切り刻むほど強くなっていくから、すっごく興奮しちゃった。ここまで傷を負わされたのも久々だし、本当に有意義な時間をありがとう」
頬と右肩、左の脇腹と右の内腿……けっして深いとは言えない傷。私とスカーレットが2人がかりで付けた傷だ。
対して、スカーレットはもうどこを斬られたのか……つーか、どこなら斬られてないのか分からないくらいにナマス切りにされていた。
私の数メートル先でうつ伏せになるアイツが生きてるのか死んでるのか、生きてても死んでても叩き起してやりたいけど、生憎私もズタボロだ。
もう指1本動かす力も残ってない。ただ、前方に立つジューダスと、その手前に転がっている自分の右腕を睨みつけるくらいしか出来なかった。
「魔女ってね、使える魔法が予め決まっては居るけれど死ぬ気で訓練を続ければ少しづつ成長出来るのよ。身体強化も100年200年あれば1段階くらいあがるかもしれない……けど、半魔獣化しちゃうとそれが不可能になるの。もちろん魔獣化の影響で爆発的には強くなるわよ? けど成長はそこで打ち止め。それ以降に死ぬほどの訓練なんてしたら、魔獣化が進んで本物の魔獣に堕ちてしまうから」
ジューダスが、切り落とした私の腕を跨いで近づいてきた。そして、傍らに横たわっていた夢花火を拾い上げた。
「……けど、魔剣に細工をして力の底上げをするという発想は素敵だったわ。この魔剣、素晴らしい出来だもの。これって、魔力を込めれば私も使えるのかしら……すこし、試してみましょうか」
ジューダスが夢花火を振り上げた。どうやらここまでだ。あと1秒と待たずして、私は死ぬ。
やるだけやって死ぬんだから、後悔はない。死ぬ時はそう思って死ぬって決めてた。
──だってのに、私は振り下ろされる刃が怖かった。確かに死にたくないと思ってしまっている。こんな風に変わっちまうなんて、ほんとにガラにもないことしちまったもんだ。恋愛なんて、縁がないものだと思ってたのになぁ……。
(……最後に、一目でいいから会いたかったな。晴人)
私は目を瞑った。別に振り下ろされる刃を見たくなかったからじゃない。ただ、最後の瞬間は頭の中であいつの間抜け面を思い出したかったんだ。
──ジューダスが剣を振り下ろすために、半歩踏み込んだ音が聞こえた。だが、いつまで経っても剣は振り下ろされなかった。
不思議に思って目を開くと、ジューダスは剣を下ろして、あらぬ方向を向いていた。何も無い、壁の方を。
「…………ッ!?」
巨大な爆発音と衝撃を感じたのと、ジューダスが視界から消えたのはほとんど同時だった。けたたましい轟音が過ぎ去り、ガラガラとフロアが崩壊する音の中、目の前にはジューダスの代わりに、別の女が立っていた。
「──おいお前、俺の妹に何してんだ」
灰色の髪。黒鉄のレッグガードとナックルアーマーを身にまとった、隻腕の魔女。
バンブルビー・セブンブリッジ──




