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210.「月とぐちゃぐちゃ」


【ラテ・ユーコン】


──ほんとうに、魔が差したとしか言えない。


 あの日、いつになく飲み過ぎた私は裏庭のベンチで風に当たっていた。

 夜も()けて、心地よい風も、優しい月明かりも、全部私の貸切状態だったのに。


「──今夜は月が綺麗ね」


 あけすけな下心満載のセリフと共に、彼女はやって来た。元、七罪源(プレアデス)所属の色欲の魔女 ブラッシュ・ファンタドミノ。


「たしかに綺麗だけど、なんだか急に曇ってきたみたい」

「ふふ、つれないのね」


 普段はそうでもないんだけど、こんなふうに2人きりになると、正直言って彼女のことが苦手だと感じる。

 別に彼女になにか害されたとかそういう訳ではないけれど、単純に“女狂い”……そういうところが少し怖かった。


 落ち着き払った態度とか、クールそうに見える淡いブルーの髪とか、柔和(にゅうわ)な顔つきとか、一見無害に思える要素は全て、獲物を騙すための機能なんじゃないかと思ってしまう。


 実際、月明かりに照らされる彼女は、黙ってさえいれば少しドキリとするくらいには綺麗だし……きっとこの“機能美”で、何人もの女の子が泣いてきたのだろう。


「私、今日はちょっと飲み過ぎちゃってね、酔い覚ましに涼んでたんだけど、ブラッシュはこんな時間にどうしたの?」

「私もなんだか寝付けなくて、少し風に当たろうと思ったの。隣いいかしら?」


 私はベンチに腰掛けたまま、体を少し隅の方にずらしてスペースを開けた。ブラッシュは隣に座ると、手に持っていたブランケットを、自分と私の膝に広げてかけた。


 こんなもの持ってるくらいだから、きっと本当に風にあたりに来たんだろう。そう思うと、少しだけ警戒が解けた。


「なんだか新鮮ね。あなたがそんなに酔っているところ、初めて見たわ」

「……そう? まぁたしかに、普段イースとかを見てるから自重してるつもりではあるけど」

「そう……普段がそうなら、今日はいつもと違った日だったのかしら?」


 自分で余計な事を言ってしまったと後悔した。お酒が入るとこんなふうに考え無しに喋ってしまうからよくない。

 よくないと思いつつも、私はブレーキをまだ見失ったままだった。


「──今日、ヘザーと少し口喧嘩しちゃって……それで、ちょっとヤケ酒をね……」

「……なるほど。そういうわけだったのね。けど、喧嘩する事なんてたいした問題ではないわ。仲直りの方法さえ知っていればね」

「……じゃあ大した問題よ。だって私、どうやって仲直りすればいいか分からないもの……」


 ヘザーと喧嘩なんてしたのは、30年付き合って初めての事だった。むしろ、それがよくなかったのだと思う。

 30年間ずっと溜め込んできたもの……きっとその場その場で発散すれば痛くも痒くもなかった『ああして欲しい』とか『こうしたい』とか、そういうものを一気にぶちまけて、それはきっとヘザーを傷付けたに違いなかった。


 だから、私がこんなにも酔っ払っているのはヘザーに対して怒っているからではない。腹を立てているのは、私自身になのだ。


「──ブラッシュは、もし誰かを傷つけたりしちゃったら……どうやって仲直りするの?」


 お酒のせいなのか、それともいつになくブラッシュがまともに話せるからなのか、気が付けばそんな事を言っていた。


「そうね、まずは相手に許してもらうこと……そのためには謝罪だけじゃなくて相手が納得する“埋め合わせ”が必要だと思うわ」

「その、埋め合わせって具体的には何をすればいいの?」

「大抵は原因と反対の事をすればいいのよ」

「……反対?」

「悪い事をしたなら、良い事を。痛い事をしたなら、気持ちいいことを……簡単でしょう?」


 何となく理屈は分かるような気がするけど、それでも私には決して簡単だなんて思えなかった。そんな私を見て、ブラッシュはクスクス笑う。


「そうやって難しく考えすぎるところが、喧嘩の原因なんじゃないかしら?」

「……それは、そうかもしれないけど……私はただ、ヘザーに嫌われたくなくて──」

「ええ、ヘザーが奥手過ぎて困ってるのよね。ラテは今よりも恋人らしい関係を求めているけど、ヘザーはステップアップを望んでいない。自分の意見を押し通そうにも、今回みたいに喧嘩になったり、嫌われるかもしれないし……だいたいこんなところかしら?」


 私はギョッとした。彼女が言った内容は、まるで今日の喧嘩を横で見ていたのかと思うほどの正確さだった。


「ヘザーは私には何もしてくれない。大切にしたいからだって……いつもそればっかり。もちろんその気持ちは嬉しいわ。けど、私の前の恋人にしてたことを、私にしてくれないと……どうしても不安になるの。私、まだそこまで好かれてないのかなって……ヘザーの言う、キチンとした段階とか、そんなのもう分からないの……わ、私はもうこれ以上ないって、くらい……好き、なのに……うっ、うぅ……」


 ずっと胸の奥にしまいこんでいた気持ちが、せき止めようとする喉を押し開いて口からこぼれる。いつの間にか涙まで溢れてきて、もう自分で自分が制御出来なくなっていた。


「わ、わたしっ……魅力ない、のかなぁ……うぅ、バンブルビーみたいに、胸も、ないし……恋人だって……ひぐ、出来たこと、ないしぃ……うぇぇ」


 気が付けば、私はブラッシュにすがりついて泣いていた。私から抱きついたのか、ブラッシュに抱き寄せられたのかなんてもう分からない。

 ただ、喉の奥が苦しくて、目頭が熱くて、彼女の胸に吐き出す息が湿っぽくて、そんなふうに、ただ身体が感じ取った事しかもう考えられなかった。


 だってのに、そんなタイミングでブラッシュは、私の涙を優しく拭ってキスをした。

 びっくりする暇もないくらい自然なキスで、信じられないくらい優しいキスだった。


 30年間、ずっと私が待ち焦がれていた感覚。これがそうなんだ、これがキスなんだ……こんなにも心が安らいで、胸が踊るものだったんだ。


 この時の私もう、この素晴らしい行為の相手がヘザーじゃないとダメなはずだっていう、至極当然なことを考える余裕もないくらいにどうかしてしまっていた。


 そこからの記憶はもう曖昧で……気が付けば私はブラッシュの部屋で、彼女に抱かれていた。


 ずっと欲しかったものを与えてくれる。その幸福に私は逆らえなかった。お酒のせいにして、考える事をやめるふりをしてしまった。身体をほしいままに陵辱されて、頭がおかしくなるほどの承認感に酔いしれてしまった。


──そして翌朝、自室のベッドで目を覚ました私は確信してしまった。


 未だ胸に灯る多幸感を、決して一夜の過ちになんて出来ないということを。


 それから何度か、私はブラッシュと二人だけの夜を重ねた。決してヘザーを嫌いになったわけじゃない。むしろ、これまで以上にヘザーともそうなりたいと強く望むようになった。


 自分が最低なことをしているのは分かっている。私がしているのはただの不貞行為だ。けど、それでも、ヘザーに思いが伝わらないたびに、私は酷い焦燥感と承認欲求に苛まれてしまう。


 そしてきまってそんな時に限って、狙いすましたようにブラッシュが声をかけてくる。



 もうこんなことやめなければ……ようやく私がそう思えたのは、ヘザーが私にキスをした後だった。


 あれだけ奥手だったヘザーが、どうしてあの日は積極的だったのかは分からないけど、途端に酷い後悔に襲われた。ヘザーもきっと私と同じくらい悩んで抱えていたものがあった筈なのに、彼女はそれと1人で向き合って、そして私の望む方へ歩み寄ってくれた。


 30年待てたのに、どうしてあと数日待てなかったんだろう。どうしてファーストキスをヘザーにあげられなかったんだろう。どうして、ヘザーとのキスで……ブラッシュを思い出してしまうんだろう──


 そんな複雑な悩みを抱えながら、結局私は昨夜もブラッシュの元へやって来た。

 一時しのぎだし、もっと悪くなるのは分かっているけど、それでも私には耐えられない。止めどなく湧き上がる焦燥感と罪悪感、承認欲求、なにもかも、全部ベッドでぐちゃぐちゃに溶かしてほしい。



「──単刀直入に聞きますけど、ブラッシュと浮気してますよね」


 だから、いつかはこんな事になるんだろうなって、心のどこかでは思っていたのだ──






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