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20.「鼻血と飯田ペッシ」


 【辰守 晴人】


 フーを連れた初めての学校がようやく終わり、俺は三龍軒に来ていた。店長にバイトの時間を一時間ほど遅くできないか交渉するためだ。


 これまでは午後の五時から十時までの間で働いていたのだが、フーの事もあるし少しでも長く一緒にいた方がいいだろう。


 バスから降りた俺は、フーをそのままバス停のベンチに座らせた。


 店長にフーのことを知られるとなんだか面倒な事になりそうな予感がするし、出来るだけバレたくない。


(龍奈にも『絶対にバレちゃダメだからね』と釘を刺されたしな)


 バス停の斜向はすむかいにある三龍軒へ道路を跨いで歩くと、店のドアが開いて店長が出てきた。


「ん、ハレか。どうした? もう出勤してきたのか?」


 店長は俺を見つけるなり、店の玄関の前で仁王立ちになりそう言った。


 相変わらず客商売に向かない仏頂面である。


「おはざーす、ちょっとシフトの事で相談があって寄ったんスけど、これからしばらく出勤時間遅めてもらったり出来ますかね?」


 俺は店長からベンチにこしかけるフーが死角になるように、若干斜めに位置取ってそう言った。


「そうか、ちょうどいい。実は今店がごたついててな、一週間くらい店を閉めようと思ってたんだ」

「え、なんかあったんすか?」

 

 俺が聞くと、店長は組んでいた太い腕をほどき、頭の後ろをがしがしと掻き始めた。


「まあ、ちょっとな……とりあえず次の開店日の目処が立ったら龍奈に伝えさせるから、それまでは悪いが休みにしといてくれ」


 一応これまでのバイト代もあるから一週間休んでも、別に金銭的には問題はない。むしろフーを一人にしなくてすむし、こちらとしても都合がいい。


「まあ、そういうことなら、了解っス」


 俺がペコっと頭を下げると店長は『おう、お疲れさん』と一言いって、店の中に入っていった。


 その時一瞬店の中が見えたが、模様替えでもしてるのか、やけに散らかっているように見えた。


 ていうか、店長外に用事があったから出てきたんじゃなかったのか──




* * *




 俺は洗濯物を回収しに二階への階段を上がっていた。以前寝室にしていた二階の部屋が、今はフーの部屋になっている。

 階段を上がってすぐにある扉をノックする。


「おいフー。洗濯回したいから制服とか出してくれないか?」

「んー、分かったー!」


 ドアの向こうからテレビの音に混じってフーの返事が聞こえた。


 フーはどうやらテレビが大層お気に入りらしく、今日も家に着くと直ぐに階段を駆け上がってテレビを見始めた。


 俺も一緒に観ようと誘われたが、俺がテレビを観始めたら誰も家事をする人がいなくなるので断念した。


──しばらくして部屋のドアが開いた。


「はい、制服だよー!」


 下着姿のフーが、くしゃくしゃに丸められた制服を両手に持っていた。


「ちょ!? バカ、服をき……うおっ!?」


 俺は思わず両手を顔の前に出して後ずさった。


 しかし、俺の背後には後ずさる床が無かったため、そのまま背中から階段を転がり落ちていった。


「ハレ!? 大丈夫!?」


 一階まで綺麗に転がり落ちた俺は、仰向けで倒れていた。


 そこに階段を駆け下りてきたフーが俺の身体に馬乗りになり、肩をすごい力でガクガク揺さぶってきた。


──の、脳が、俺の脳が揺れてる!! ついでに、フーの胸も揺れている──!


 結構な量の鼻血が出ているが、これは断じて下着姿のフーに興奮しているわけでは無い。きっと階段を転がり落ちた拍子にぶつけたのだ……そのはずだ。たぶん。


「ちょ、フー、やめ、大丈夫、大丈夫だから!」

「ほんと? ほんとに大丈夫?」


 ぐるぐる頭を回しながら、なんとかフーを落ち着かせる。


 さっきまで同じ制服を着ていた女の子が、下着姿で俺に跨っているという状況、非常にまずい。


 何がまずいって、昨日、一昨日のパターンでいくともうそろそろ──


「ハレ! 学校どうだった!?」


 龍奈が廊下のドアを勢いよく開けて居間に入ってきた。


 バッチリ俺と目が合う龍奈。

 笑顔のまま固まった龍奈の顔が、段々鬼の形相に変わっていく。


「ま、待て龍奈! 誤解なんだ!」


 身体に乗っかるフーを無理矢理下ろして、俺は立ち上がった。


「この変態!」


──龍奈の回し蹴りが炸裂した。




〜十分後〜




──顔面に回し蹴りをクリーンヒットさせてくれた龍奈さんに、何とか事情を説明して誤解を解いた俺は、現在フーの魔法で治療されていた。


 もちろんフーはちゃんと服を着てくれている。


「それにしても便利な魔法よね。次からはもうちょっと強めに蹴ろうかしら」

「発想がサイコパスかよ」


 龍奈はそんなことを言いつつも一応は反省しているようで、蹴られた反動で居間の壁に飛び散った血をせっせと拭いている。


 龍奈が壁についた血を必死に拭いている光景。何かの証拠隠滅に見えるな。


「はい、これで治ったよー!」


 フーが俺を治療していた手を離してそう言った。


 さっきまでの痛みが嘘のように消えて無くなっている。やはり、魔法の力は絶大だ。


「ありがとうなフー」


 俺はフーの頭を撫でてそう言った。


 サラサラの金髪は髪の毛一本一本がとても細く、なんだか癖になる撫で心地だった。


「治ったんなら手伝いなさいよ!」


──突如俺の顔面に濡れ雑巾が飛んできた。

 

 スパーァンッ! という気持ちのいい音を立てたが、俺は全然気持ちよくない。


「ねえフーちゃん、龍奈ちょっとバカハレと話があるから二階でテレビ見て待っといてくれる?」


 俺がしゃがみ込んで悶えていると、龍奈がそう言った。俺に雑巾を投げつけた時と同一人物とは思えないような声と表情だ。


「はーい! 終わったら呼んでねー!」


 フーは元気に返事をすると、リズム良く足音を鳴らしながら階段を駆け上がって行った。


いってぇ、急に何すんだよ龍奈」

「そんくらいで大げさよバカハレ! さっさと起きなさい」


 今日も今日とて凶暴な龍奈さんに脅されて……じゃなかった。促されて、俺は起き上がり、椅子に座った。


 さっき治療してもらったばかりの顔面がヒリヒリする。おそらく俺の顔は雑巾の形に赤い跡が付いているだろう。


「で、話ってなんだよ」

「……その、言い出ぺっしの龍奈が言うのもなんだけど、フーちゃんを学校に連れていくの、やっぱりやめといた方がいいかも」


 いつになく龍奈が神妙な顔で話し始めたから、俺も結構身構えて聞いていたのだが『飯田ペッシ』という謎の人物の登場によって全然話が頭に入ってこなかった。


「あー、言い出しっぺだよな?」

「はあ? ちゃんと言ってんじゃない! 言い出ぺっしでしょ!」

「……なるほど、たしかに」


 全然言えてない。俺の頭の中にはサッカーボールを蹴るハーフの中年男が浮かんでいる。ユニフォームには飯田ペッシとある。


「とにかく、アンタもしばらく学校休んで、家でフーちゃんとおとなしくしてなさいよね!」

「え、何なんだよ急に、なんかあったのか?」


 フーのこともあるし、俺が学校を休んで面倒を見るのは道理だが、昨日までと言っていることが違いすぎる。


 どうも焦っているように見えるというか、よく見ると少し顔色が悪い。


「別に、そもそも龍奈のフリして学校とか行って、バレたら面倒でしょ……」

「いや、それ俺が昨日言っただろ」

「いいから! 死にたくなかったら黙って言うこと聞きなさいよね!」


 龍奈が怒鳴るのなんていつものことだけど、今のは明らかにいつもとは雰囲気が違っていた。


 龍奈も、言った後にハッとしたように小さく『ごめん』と呟いて、それっきり黙りこくって顔を伏せてしまった。 


 俺は黙って龍奈の方に近寄って、龍奈の額に手を当てた。


「ひゃっ、な、なによ!?」

「……いや、なんか顔色悪いし、熱でもあんのかと思って……」


 龍奈が聞いたこと無いような可愛い声で悲鳴をあげるから、手を当てた俺が思わず恥ずかしくなる。


 その時、額に当てた指先に妙な違和感を感じた。


「……お前、怪我してんじゃねえか」

「うっさいわね、ちょっと家の鴨居かもいにぶつけただけよ」


 指先に触れたのは絆創膏だった。

 額の右上に貼ってあったが、前髪に隠れて今まで気がつかなかった。


「いや、それ身長二メートル越えのやつしかぶつけないとこだろ」

「いっちいちうっさいのよ! どこで怪我しようが龍奈の勝手でしょ!」


 龍奈が前髪に触れていた俺の手を振り払って怒鳴った。

 結局怪我をした理由も分からない。

 

 今日の龍奈は分からないことだらけだ。


「……勝手かもしれねえけどな、お前も一応女の子なんだから、顔に傷つくってんじゃねえよ」

 

 龍奈のあまりに不可解な言動や行動に、俺も調子を狂わされたのかちょっときつい言い方になってしまった。


 龍奈は再び顔を伏せてしまって表情を窺うことはできないが、おそらく怒っているんじゃないだろうか。


「……きょ、今日はもう帰るから! しばらく家から出るんじゃないわよ!」 


 てっきり『余計なお世話よバカハレ!』とか言って、ブラジリアンキックでもされるかと思ったが、顔を伏せたまま立ち上がった龍奈は、言うや否や足早に出て行ってしまった。


 玄関の扉が閉まる音が聞こえた後、ガチャリと鍵を掛ける音も聞こえた。


 機嫌と態度は悪かったけど、わざわざ鍵を掛けていくところとか妙に律儀なんだよな。


「……明日、学校休むか」


 俺は一人取り残された居間で呟いた──


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