191.「ファーストキスとラストクリスマス⑤」
【夕張ヒカリ】
我慢の限界だった。正直、ソファから身体を起こすことさえ億劫だったが、前回の経験上この胸に込み上げてくる不快感……絶対に吐く。そう確信した。
普段は殆ど使われない事務所の、正式な方の扉を開けて、フロアにあるトイレに向かう。
トイレの入口、手洗い場の壁に取り付けられた鏡に自分の姿が写った。ひっでぇ顔で……ひっでぇ格好。死ぬほど気分が悪いし、意識も曖昧だけど……でも不思議と脳みその何処かは冷静で、ふと「あ、髪後ろで結んどかないと吐く時邪魔だな」なんて考えが頭をよぎった。
ふたつ括りにしてた髪を一度ほどいて、後ろでひとつに纏める。そして、アタシは小さな意志を固めてトイレの個室へ入った──
* * *
「……アイツ、おせぇな」
忌々しいプリティチェリーの格好から私服に着替え直して、アタシは再びソファに座っていた。さっき出すもん出したからなのか、それとも多少は耐性が付いたのか、気分はかなり良くなっていた。
手洗い場の水で口をすすいだおかげで多少は喉の乾きも抑えられているし、頭痛が無いってのもかなりでかい。
水を買いに行ったアイツはそろそろ帰ってくるんだろうか……得体こそ知れない奴だけど、悪い奴ではないんだよな。
──────このままアイツの傍に居ていいのか。
『わたしがわたしじゃなくなっても──』そう言った櫻子の顔がずっと頭から離れない。
先日モールで鈴国から聞いた話、ハナアワセヒバナとかいう魔女が魔女狩りの人形になってるって話……轟龍奈という故人への成りすまし。アタシはこの話を聞いた時漠然と櫻子に今起きている状況はこれに近いことじゃねぇのかと思った。
確信は無い。ただ、7年前の事を思うとあながちただの思い過ごしとも思えない。あの時、櫻子が魔獣災害の事故で死んでしまう日の数日前から……櫻子と会っていた女がいた。
アタシにも櫻子にも面会なんて誰も来ない。そんな知り合いなんて居ない筈なのに、いつの間にか櫻子と親しげに話していたあの女が、何かカギを握っているんじゃないのか。
流暢な日本語を喋る、桜色の髪の女……たしかなんて名乗ってたんだっけ──
古い記憶の海に潜ろうとしていた時、窓辺に人の気配を感じた。
「……ん、帰ってきたのか。サンキューな──」
視界の端、街の灯りで逆光になった窓辺の黒い影にそう言ったが、立っていたのはアイツじゃなかった。
桜色の髪を風に揺らしながら佇んでいたのは……。
「──お前……ヒナヒメか?」
* * *
【熱川カノン】
酔い覚ましに冬の夜風はうってつけですの。火照った身体を冷たい風が撫でるのが心地いい。魔力始動すれば自宅までは十数分もあれば帰れますけれど、あえてそうはしない。楽しかったパーティの余韻をゆっくり味わってからでも遅くは有りませんものね。
ふと、彼の声が聴きたくなって脚が止まった。ぼんやりとした気持ちで、スマートフォンから彼の連絡先を探して電話をかける。
まだ完全に酔いが覚めていないのでしょうか、思考から行動までの間にある何かが仕事をしていませんの。
『お客様がおかけになった電話番号はおでになりません。電源が入っていないか──』
「むぅ、ガッカリですの……」テンの声を聴きながら、冬の星座を見上げてゆっくりと家路につく。きっと贅沢な時間になりましたのに……。
残念……なんて思いながら空を仰ぐと、微かに、けれどもしっかりと輝くオリオン座の間を一羽の鳥が横切っていくところでした。
はて、夜中に鳥が飛んでいるなんて珍しいことも──
「…………ッ!!?」
何となく眺めていた鳥。その鳥が小さな光に貫かれたのを見た瞬間、左右からの殺気を察知した。
反射的に弾丸のようなスピードで飛来した何かを避けて、避けて、避ける。最後に躱した一本は、明確に視界に捉えることが出来た。それは夜闇に溶け込むような漆黒の杭……ひりつくような剣呑な空気に、私は眼帯を剥ぎ取った。
「──なんということでしょう、わたくしとダーリンのスーパーラブラブサプライズアタックが失敗するなんて、遺憾の意です!」
「殺気漏らし過ぎなんだよバカ。さっさと片付けるぞ」
暗闇から姿を現したのは黒髪の男女。女性の方は両手に杭を、男性の方はナイフを逆手に構えている。どこからどう見てもただの人間……ではありませんわね。
「……異端審問官の方とお見受けしますの。私のクリスマスイブを台無しにしてくれた責任……とれる覚悟は出来てまして?」魔力のギアを全開に、速攻でカタをつけますの。おそらく念入りに準備されたのであろうこの奇襲攻撃……きっと櫻子達の元へも──
「…………っダーリン、この魔女!?」
「ああ、どうやらかなりやるみたいだな。ハズレ引いたかもしれん」
「いや、そうでなくて……一人称がわたくしと被ってます!!」
「そこかよ」
なんだか、やりずらそうな相手ですわね……!
* * *
【エミリア・テア・フランチェスカ・ヘルメスベルガー】
「いや〜今日は楽しかったね〜なんか人生で初めてのクリスマスって感じかも〜」
「そうですね。こんなに楽しいクリスマスを過ごしたのは久方ぶりです。何年か分を一度に取り返せたような気がします」
事務所からの帰り道、カルタと並んで夜の街を歩く。クリスマスイブだからだろうか、この時間にもなると見渡す限りに人影は見当たらない。まるで世界にカルタと二人っきりになったみたい。
「来年もみんなで集まってプレゼント交換しようね〜」
「ええ、来年もそのまた来年も……毎年みんなで集まりましょう」先月までの事を考えると、今は嘘みたいに幸せだった。最初こそ不安で不安で仕方なかったけれど、VCUの皆さんはとてもいい人で、いい友人で……。
「今日は興奮して寝れないかも〜早速カノンから貰った本徹夜で読んじゃおっかな〜」
「今日に限らずカルタはいつもゲームで夜更かししてるじゃないですか。明日は誕生日パーティするんですからちゃんと寝て下さい!」
「うへへ〜エミち〜に誕生日祝ってもらえるなんて果報者だよね〜私」
「そうですよ。光栄に思って下さい!」
二人で手を繋いで、なんてことのない話をして笑いあって、それだけで胸の奥が苦しくなって……なんだか泣き出しそうになってしまう。
私だけなのかな、カルタもこんな風に思っていてくれてるのかな。繋いでいる手にギュッと力が入る。
「──じゃあ、そろそろバイバイだね〜」気がつけば、あっという間に私とカルタの家路への分岐路に差し掛かっていた。時間が経つのが早すぎる、まだ100キロメートルくらい手を繋いで歩いていたいのに。
「……………………そう、ですね。それでは、また明日」
するりと、私の手からカルタの手が離れていく。何だか別段名残惜しさを感じさせないような離れ方に、少し胸がチクリとした。
大丈夫なのかな……こんなにカルタの事好きで本当に大丈夫なのかな。明日はカルタに告白するって決めてたけど、本当にしてしまっていいのだろうか。カルタは今どんな気持ちなの? 私の事どう思ってるの? 友人、同僚、世話焼きの妹みたいな存在?
──どうしよう、怖くなってきた。
うじうじ考えている間に、カルタは手を振って離れて行ってしまう。私もその背中を少し見送って、自分の家へと歩き出す。
大丈夫。きっと大丈夫。レイチェルさんも他の皆さんも色々と協力してくれたんだし、ここで尻込みするなんて絶対にダメ。
告白はする。例え望んだ結果にならなくたって、私は好きな人に好きだと伝える──
「──ごめんエミリア、ちょっと忘れ物」
不意に肩を掴まれて振り返ると、走ってきたのか少し息をきらせたカルタが立っていた。忘れ物って、私何か預かっていたっけ。
「えっと、私何か…………ん──」
──カルタの唇が、私の唇に触れた。
「………………………………………………え?」
今何が起こったの? 急にカルタの顔が近づいてきて…………え?
「好きだよエミリア。明日私から告白するから、ちゃんと返事考えといてね。じゃあ、気をつけて」
言うだけ言って、カルタは再び歩き去って言ってしまった。遠ざかっていくカルタの背中が角を曲がって見えなくなるまで、私は目が離せなかった。
心臓の音が凄い。心臓の音が凄い。唇が熱い。
『私から告白するから──』
「………………ずるい」
唇にそっと指で触れる……微かに感じる熱。私のファーストキスだった。
* * *
【鳳カルタ】
家への帰り道を、軽い足取りで駆け抜ける。ついさっきのエミリアの顔……めちゃんこ可愛かったな。
今日は本当に最高のクリスマスパーティだった。そして恐ろしいことに、明日はきっと今日よりもずっと思い出深くて素晴らしい日になるんだろう。なって欲しい。
期待も大いにあるし、少しだけ不安もある。胸の奥が苦しくて、気を抜いたら柄にもなく泣いてしまいそうな、そんな気持ち。エミリアも同じ気持ちだったら嬉しいな、なんて、それこそ柄にもない事を思っちゃったりして……誰かを好きになるのって色々大変だ。もちろん悪い意味じゃなく。
「………………?」
急に感じた違和感に、軽快な足取りが阻まれた。ずっと掛け流していた音楽が急に止まってしまったような感覚……これは──
「……社長?」
私は周囲に意識を広げた。皆は気づいていなかったみたいだけど、ここ最近……恐らく温泉外で魔女狩りに襲われた時以降、社長の魔力を発する大きなカラスが常に近くにいて、私達を見守っていた。
最近は近くにその気配があるのが当たり前になっていたけど、たった今その気配が急に途切れた。なんでだろう、社長に何かあった? いや、むしろ社長というかそばに居たはずのカラスに──
「……そこの奴、路地の影のお前と……屋上のもう一人。居るの分かってるよ」感知に広げていた意識を更に集中すると、さっきまで気付けなかった奴が浮かび上がってきた。意識的に気配を消してたってことは、どう考えても通りすがりのまともな奴では無い。
「──あらあらまあまあ、この私が気取られるなんて……仕方ありませんね。少し場所を変えましょうか。一般人を巻き込むのはあなたも本意ではないでしょう?」
路地から音もなく姿を現したのは一人の女だった。抑えていた魔力がゆっくりと溢れ出している。魔女だ。屋上の奴に動く気配はないみたいだけど……そいつからはまだ魔力を感じない。
「急に出てきて勝手に話進めてんじゃないよ。お前達魔女狩りだね……この前返り討ちに合ったの懲りてないわけ?」
「ふふ、失敗は成功のお母さんですから〜今回は上手くやるつもりですよ?」
胡散臭い喋り方にこの見た目、ヒカリと櫻子が戦ったっていう人形と情報が一致してる。だとしたら屋上の奴は例の戦力外の少年? 決めつけるのは良くないけど、だとしたら場所を移そうとか提案してくることに説明がつく。
「いいよ、あっちの河原でボコボコにしてやるからさっさと行こ」
「あらあらまあまあ、思っていたより楽しそうな方ですね。一番殺しやすそうな方を譲って貰いましたのに。ふふ」
身体強化を伴った高速移動で、女と並走しながら河原へ向かう。今のところ屋上の奴に動きは無い。
魔法を使えばコイツらを撒くのは難しくない。けど、その場合コイツらが直ぐに私以外のところに行くかもしれない。どれくらいの規模で襲撃をかけてきたのか分からないけど、社長のカラスが消えたこと、一人になった途端の襲撃のことを考えると、多分他の皆も危険な状況の筈。
私が今出来る一番ベストな選択は、コイツらを巻きでとっちめて、直ぐに他のみんなの所へ加勢に行くことだ。多分だけど私たちの中で一番対人が強いのはカノンかエミリア……心配なのは泥酔してたヒカリと、最近明らかに情緒がおかしい櫻子。
櫻子は事務所でヒカリとニコイチの筈……一番距離が近いエミリアをまず助けに行って、その後状況にもよるけど二手に別れてカノンと櫻子達の元へ──
高速回転していた思考が纏まったところでちょうど河原に着いた。ここなら伏兵が来ても感知しやすいし、何より誰も巻き込まない。私はできるだけ丁寧に、カノンから貰ったプレゼントを傍らに放り捨てた。
「……いくよ『夕凪』」薙刀型の魔剣夕凪を構えて、私は女を射抜くように睨みつけた。
「ふふ、怖い顔……あぁ、そういえば今回は生け捕りではなく殺害の方向でいかせてもらいますので……あしからず」
女は鉈のような魔剣をくるくる回しながらそう言った。
『来年もそのまた来年も……毎年みんなで集まりましょう』
この時点ではまだ、今日が皆んなで集まれる最後のクリスマスになるなんて思ってもみなかったんだ──




