185.「水と二日酔い②」
【熱川カノン】
──深い深い海の底。微かに感じた小さな気配が徐々に輪郭を帯びて、それが廊下に設置された柱時計の鐘の音だと気づいた時……私の意識は覚醒しましたの。
「…………頭が……割れそうですの……」
見慣れた天蓋。見慣れたシェードランプ。そして心臓の鼓動に合わせて頭を殴打されているかのような鈍痛……体の節々も筋肉痛のような痛みを帯びて、胸の辺りには若干の吐き気も……。
これまで生きてきた十七年間で、ここまで酷い体調不良は魔力が暴走した時以来ですの。一体なぜこんな事になっているんでしたっけ…………ダメですの、思い出せません。体の不調と喉の渇きが思考の邪魔をしていますの。
いえ、今は些細なことは後回しに、とりあえずはベッドから身体を起こしてキッチンへ水を頂きに行きましょう……。
* * *
「……ふぅ、五臓六腑に染み渡りますの……」乾いた大地に水を巻いたように、私の身体の隅々まで水が吸収されるような感覚。こんなに喉が渇いたこと、今までありませんでしたわね。
「あら、カノン。目が覚めましたのね……昨晩は随分と羽目をはずしたようですけれど、体調は大丈夫ですこと?」
「……お母様、おはようございます……昨晩、と言いますと……私何をしていたのでしょう、何故か記憶が曖昧で──」
私を見るお母様の顔……心配と憐れみと同情が一緒くたになったようなその顔を見て、昨晩の記憶がフラッシュバックしましたの。
『杏仁豆腐は愛ですの〜』この辺りまで……テンとの初デート。時計台前での待ち合わせからこの辺りまでの記憶はありますの。ええそうですとも、死にたくなるような恥ずかしい記憶がですわッ!!
ああ、私ったらテンの前でなんて醜態を……ッ!!
「思い出したようですわね。昨晩、崑崙宮のホアンが意識を失った貴女を連れて来た時は驚きましたわ。いくらお酒が飲める歳とはいえ、熱川の娘たるもの節度は持たなくてはいけませんことよ?」
「……はい。申し訳ございませんお母様」
なんということでしょう……テンのみならずホアンさんやお母様にまで醜態を……というか、これ昨晩テンとデートしたことバレてるんじゃありませんの!?
「ホアンがお友達は先帰ったと言っていましたから、後できちんと連絡をするように。きっと貴女のことを心配していますわ」
「……え、ええ。もちろんですの……」これは、もしかしなくても……ホアンさん気を利かせてくれましたのね!! 圧倒的謝謝ですの!!……ただ、大きな問題はまだ残っていますわ。テンに昨晩の謝罪と弁明の連絡をするという、大きな問題が。
* * *
「え〜〜!? それでまだ連絡してないの!?」
校舎の屋上……吹きすさぶ寒風がいつもより冷たく感じるのは、実際に気温が低いのか、今朝の体調不良がまだ残っているからなのか、それとも──
「……櫻子、簡単に言ってくれますけれどテンの前であのような醜態を晒して、どの面下げて連絡すると言うんですの!?」
昼休みの時間。いつものように屋上へやってくると、既に勢揃いしていた櫻子達に昨日のデートのことを根掘り葉掘り聞かれましたの。それはもう、もの凄いテンションで……ただ、ヒカリ以外。
どうやら昨晩は櫻子達も『飲み会』というものに興じていたようで、ヒカリは未だに二日酔いで大人しい。静かなヒカリというのもなんだか新鮮ですわ。
「確かに〜そんな痴態を晒したあとじゃ、最悪ブッチされるかもしんないしね〜」
「ち、痴態ではなくて醜態と言ってくださる!?」というか、サラッと恐ろしいことを言わないでください!!
「カノンさん、その差にこだわる意味はなんなんですか……」
「私の中では醜態よりも痴態の方が恥のレベルが高いんですの。少し変なテンションになってしまい、酔いつぶれて眠っただけならまだ醜態レベルですわ!」それだけでも充分酷いですけれど、酔ったはずみで告白したりしていないだけまだマシというものですわ………………してませんわよね告白!?
「てかさ〜途中までしか記憶ないんでしょ〜その後色々やらかしてるかもじゃんね〜えろいこととか〜えろいこととか〜」
「そんな事、この私がするはずありませんの!」いつもなら笑って流せるカルタの下卑た軽口に、ついムキになってしまいますの………………してませんわよね破廉恥なこと!?
「くっ、昨日の自分に自信が持てませんの……!」
「いっつも冷静なカノンがこんなにも取り乱すなんてねーちょっと面白いねヒカリ」
「……え? あぁ……そうだな……」
面白がっている場合じゃありませんの! あとヒカリは本当に大丈夫なんですの!?
「とりあえず、そのテンさんに今電話をしてみてはどうですか? どの道謝罪の連絡はしなければいけない訳ですし、先延ばしにすればする程、やりづらくなると思いますよ。今なら私達がそばについていますから、ついでにそれとなく昨日何があったか聞いてみるというのは……」
……どうやら、この空間で私の味方はエミリアだけのようですわね。お弁当の伊勢エビあげちゃいますわ!
「……なぜエビを」
「そ、それでは、少々お電話を失礼しますの」スマートフォンの電話帳から、テンの番号を選んでタップ……。画面が電話仕様に切り替わる。
「……か、かか、かかってますわ!?」
「そりゃあそうだよ。かけてるんだもん」
「ほらほらちゃんとスピーカーモードにして〜」
「皆さん電話が繋がったら喋っちゃダメですからね。特にカルタ」
既に動揺がピークに達しつつありますが、言われるがままとりあえずスピーカーモードに切り替えて電話のコール音に意識を集中……この電話、取って欲しいような、欲しくないような──
「──もしもし」
……つ、繋がりましたの!! どうすればいいんですのこれ!?
『カノンさん!』風の音にかき消されそうな、極限まで小さく絞ったエミリアの声に顔を上げると、目の前にはスマートフォンの画面が……『落ち着いて、まずは普通に挨拶』その短い文面を見て、私は両手で握りしめたスマートフォンに向かって声を発する。
「も、もしもし……おはようございます。カノンですの」……ちゃ、ちゃんと喋れてますこれ!?
「よかった、俺もそろそろ連絡しようと思ってたんだ!」テンの明るい声に、私を含めて周囲が無言でざわめきたちますの。よかった、とりあえず嫌われてはいない……ですわよね?!
「……昨日はちゃんと帰れたか? 結構飲んでたし、最後ちょっと色々あったから心配でな」
「…………色々?」……ってなんですの? 一気に血の気が引いて、思考が止まりそうになった……その時、目の前に再びスマートフォンの画面が差し出される。
『昨日の記憶が曖昧だと素直に伝えましょう!』エミリア、ナイスアシストですの!
「……じ、実は、私昨晩の途中からの記憶が少々曖昧でして……その、色々というと……何が?」
「え、じゃあ、最後のあのこと……覚えてないのか?」
……あのことってなんですの!? 怖いッ、怖すぎますの!!
「……ご、ごめんなさい……なんのことだか……」
「そっか……まあ、覚えてないならいいんだ! 俺もつい勢いでやっちまったトコもあるしな」
「………………ッ!!??」ななななななにを!? ナニをヤっちまったんですの!? いけない、思わず思考がカルタのように!
「あ、あの、テン!? もしかして私、昨日とんでもないことをしてしまってませんこと!? してしまってませんこと!?」
「……あー、まぁ……確かにそんな事もあったけど、覚えてないなら別に気にしなくていいんじゃないか?」
こ、これは、私……知らないうちにシてしまってるんじゃ──
『もっと具体的に!! 詳しく!!』差し出されたスマートフォンの画面を、半ば無意識に読み上げる。
「……もっと具体的に、詳しく」
……って、このスマホ櫻子のじゃありませんの!! 慌てて振り払おうとしましたけど、櫻子はイタズラな笑みを浮かべてひょいと避けてしまいました。なんということを〜〜!
「え、具体的に……って、あのときの事か? そ、そうだなぁ……カノンが俺に馬乗りになって来て……俺はずっと受けに徹してたな…………それにしてもあの乱れようは中々凄かったぞ。なんつーか意外な一面を見たというか──」
──私の親指が、通話終了のボタンを押していましたの。
屋上でスマートフォンを握りしめてへたり込む私。そしてそれを取り囲む無言の四人。最初に沈黙を破ったのは、カルタでしたの。
「え〜と、初めてってやっぱり痛いの〜?」
生まれて初めて友人をぶん殴った日ですの。




