161.「クッキーとテーブルマナー」
【セイラム・スキーム】
── 慌てて部屋に駆け込んできたジーナは、最悪の知らせを持ってきた。
「へぁ!? ヒルダが負けただって!? そんな馬鹿なッ……!」
強欲の魔女グリンダ・トワルが作った地下迷宮の邪悪なる一室に、驚愕の声が轟く。
「それが本当なのよラムちゃん、幸いまだ生きてるみたいだから、今人間兵に回収させてるけど」
「い、生きてるの!?……よかった」
まさかあのヒルダが負けるなんて、相手は確か鴉の幹部、バンブルビー・セブンブリッジだ。そんなに強いやつだったなんて聞いてない!
けど、ヒルダが生きていたのは良かった。ほんとに良かった。心臓が凍りつくかと思ったじゃないか!
「ただ状況は芳しくないわねー。ヒルダだけじゃなくて憤怒の魔女イー・ルーもやられたみたいだし。色欲の魔女に至っては行方不明で……」
「ゆゆゆ、行方不明って何!? 怖ぁ!!」
あのイー・ルーがやられた事もわりと衝撃だけど、その後の方がより衝撃的だった。何で待ち伏せしてる側の僕たちから行方不明者が出るわけ?
「目撃者がいるわ。ヒルダが連れてきた人間の傭兵がいたでしょ? アイツが言うには、まあ……なんていうかその、帰ったみたい」
「か、帰った? ちょっと自由過ぎないかいそれ!?」
あの青髪のブラッシュとかいう魔女、誰彼構わず胸とかお尻とか触って最悪だった。でも魔法は使えるから皆んな我慢して耐えていたのに、このタイミングで帰っただって!? 信じられない、最低すぎる!
「鴉の連中は次々と扉を抜けてるし、このままだと全員ラムちゃんまで辿り着くかもね」
「全員って、他の皆んなは何やってるのさ!?」
本来はアイビスを弱体化させて決戦場へ招き入れて、他の奴等はじわじわいたぶって生捕にするはずだったのに、全員決戦場に来たんじゃ作戦がめちゃくちゃになっちゃうじゃないか!
「強欲のグリンダは地下迷宮の制御で手一杯だし、キャットは夕ご飯の支度してるわね。嫉妬のレヴィは……その、単騎で鴉の本拠地に向かったみたい」
「はぁ!? グリンダとキャットはいいとして、レヴィは何のつもりだいそれは!?」
「たぶん、ジューダスと闘いに行ったんじゃないかしら。今回鴉から来たメンバーにジューダスがいなくてかなり怒ってたし」
そういえば……そういえばそんな事言ってた気もする! ジューダスを殺すために来てやったとか何とか、けど一人で乗り込むのはどう考えてもダメだろうレヴィ!!
「ど、どいつもこいつも……貪食、貪食のエキドナとゴーベルナンテは!?」
「二人とも決戦上近くの部屋で待機してる筈よ。これは手筈通りね」
言いながらジーナは苦笑いを浮かべている。そもそも冷静沈着なジーナが狼狽していた時点で事態が切迫しているのは分かりきっていたことだった。
「……ッああもう、手筈通りなもんかい! エキドナが腕を落としてくるなんて最悪の予定外だよもう!!」
そうなのだ。七罪原、いや、僕たちの中でおそらく一番強かったエキドナが、先日急に両腕を失ったのだ。
本人は『花合の生き残りに一本取られたのだ! ん、いやこの場合は二本取られたのだ?』とかなんとか言ってあっけらかんとしていたけど、大きな戦力ダウンは否めない。
強さを見込んでアイビス打倒の最重要ポジションに組み込んでいたのに、最悪のサプライズだよもう!!
「……とにかく、計画は来るとこまで来てるんだから今更後には引けないよ! アイビスの状況は!?」
「アイビスはさっき三つ目の部屋を超えたところで、今頃はたぶん四つ目の部屋かな」
「むぁぁ、思ったよりも早くない!? 人間の数をもっと増やして足止めするんだ! とにかく一秒でも長く部屋に釘付けにしないと!」
「そうね、分かったわラムちゃん。バンブルビーとレイチェルの方に回す予定だった人間を少しアイビス側へ移動させる!」
「ああともさ! この闘いはいかにアイビスを弱体化させられるかに掛かってるんだからね! 絶対にアイビスを邪悪なるこの僕の前に跪かせてやるんだ! 跪かせてやるんだい!!」
「なんで二回言ったの?」
「大事な事だからだよ!!」
* * *
【レイチェル・ポーカー】
憤怒の魔女イー・ルーを退けて少ししてから、違和感を感じ始めていた。
なんというか、身体が重いというか? 息苦しいような、空気が薄いような?
きっとここが地下深くだから、本当に空気が薄いのかもしれない。そのせいで身体がだるかったり、重かったり、めまいがしたりするだけで、別に不死身のわたしとしてはさして危機感を抱くほどのことでもないだろう。
眼前には四つ目の扉。わたしは重い腕を上げてその扉を押し開けた。
「……うっわ」
扉の奥にある程度の空間が広がっていることはこれまでの経験上予測していた。けど、この光景には少々驚いた。
人。人、人、ホール中に人人人。
びっしり、というほどでもないけれど確実に百人以上の人間がホールで揺れ動いていた。
「──あらあら、まさかここまで無傷で来るなんてね。おもてなしの用意が足りなかったかしらー?」
ホール内のどこかから、女の声が響いた。女の声っていうか、ジーナの声が。
「……十分過ぎるほど十分だよ。そろそろセイラムに会いたいんだけど?」
「安心して、セイラム様がいる部屋はもうすぐそこよ。けど、その前にクッキーを片付けちゃってね。貴女達のために焼いたんだから、冷めないうちに、ふふ。テーブルマナーは知ってるわよね?」
ホールの奥から、石扉が開閉する鈍い音が聞こえた。もしこの先にセイラムがいるのなら、わたしは当たりの扉を選んで進んできたって事なのかな?
とまあ、考えても仕方ないし今は今やるべきことをしよう。目の前の人間達、どう見ても操られていてわたしに襲い掛かろうとしているこの人達を正気に戻さないと。
『テーブルマナーは知ってるわよね?』
ジーナの言葉を反芻する。
怠惰の魔女、バベなんとかにジューダスが操られた時。あの時はジューダスの顔面を思いっきり殴って、ついでにわたしの魔力を少し流し込んだら正気に戻ったんだよね。
それでいいならやり方は簡単だ。あの時と違って相手はジューダスじゃなくてただの人間なわけだし。まあ、ただ数は馬鹿みたいに多いけどね。
「さて、貴方達のこと今から殴らなきゃいけないんだけど、正気に戻すためだから勘弁してよね」
ホールの人間達がはたしてわたしの言葉を理解しているのかどうかは定かではないけれど、わたしの言葉を皮切りに一斉に襲いかかってきた。怖いというよりは気味が悪いな。
襲いくる人間たちはそれぞれ武器を携帯している。武器といっても小ぶりのナイフとかだけど、それでも刺されば痛いし適当に吹き飛ばせば他の人間に余計な怪我をさせるかもしれない。
だから波のように押し寄せる人間を躱しながら、一人ずつ丁寧に処理していく。わたしが本気の力で殴れば人間の身体なんて熟れ過ぎたトマトみたいにぐちゃぐちゃになってしまうから、最新の注意を払って手加減しながら捌いていく。
セイラムはいったい何のつもりでこんな事を? まさか本当に人間なんかにわたし達を殺せるとは思っていないだろうし、手傷の一つでも負わせられると期待しているのだろうか。それにしては大掛かりというか……だいたいそれなら四百人もいる部下を差し向ければいいんじゃないの?
──とかなんとか考えている間に、ホールの人間を全て殴り倒した。時間にして十分以上掛かっただろうか、殺すのと違って随分と気を使った。おかげでヘトヘトだ。
動き回ったせいかさっきよりも息苦しさが増したような気もする。セイラムを倒して、こんな所さっさと出よう。この人間達も地上まで連れ帰って後処理をしないといけないし、やる事は山積みだ。
わたしは倒れる人間達を避けながらホールを進み、いい加減見慣れてきた石扉に近づいて、ゆっくりと押し開けた──




