157.「地下とトラウマ」
【バンブルビー・セブンブリッジ】
ジャランッ……という音を聞くたびに身体が一瞬強張る。それでもあの凶々しい鉄球をかろうじて避ける事は出来る。出来るのだが、ほんの少しテンポが遅れる。
そうするとこの大女があり得ないくらいの大股で距離を詰めてくるもんだから、どうしても次の攻撃への備えがギリギリになる。実際今も、大女の魔剣が頬を掠めた。
『地下』へのトラウマ。
今いるこの場所も、自分よりもはるかに大きいこの大女も、そして大女が左手に持った鎖付きの鉄球も、俺が必死に閉じ込めようとしていたトラウマを呼び起こす。身体が固い、いつもの動きが出来ない。クソッタレ……。
「……厄日だな」
思わず愚痴を溢した。らしくないな、とは思わない。俺はこう見えて愚痴っぽい。自覚している。もちろん他人の前ではそんな事はない。大抵一人の時に、独り言でぽつりと呟く事が多い。あとは趣味でつけている日記とか。
「──貴様、弱いな」
そこそこ広い空間に、女の声が響いた。ここには俺以外には大女しかいないから、言ったのは間違いなく大女だ。こいつ、喋れたのか。
曲がりくねった通路を進み、扉を見つけたのがつい先ほどの事。俺が扉を開けると、黒い髪に褐色の肌の大女がホールに立っていて、目が合うなり突然襲いかかってきたのだ。
右手で巨大な鎖付きの鉄球を操り出し、回避したところを左手の湾刀で刈り取るという割とシンプルな戦法だが、なにせ人並外れた体格のせいで間合いの広さが尋常ではない。こいつの踏み込みは一般的なサイズの魔女の倍くらいはあるんじゃないかとさえ思う。というかあるだろこれ。あるな。
とにかく、そんな感じの色々めちゃくちゃな大女が不意に言葉を発したもんだから、俺はつい『は?』と呆気に取られたわけだ。
「貴様、熾天卿レイチェル・ポーカーの側近だろう。確かバンブルビー・セブンブリッジと言ったか」
「だったらなんだ、というか普通に口きけるのかデカ女」
「私の名はヒルダだ。デカ女ではない」
「……そりゃ悪かったな。で? 俺がレイチェルの補佐官だったら何か問題が?」
「さっきも言っただろう。お前は弱すぎだ。セイラムを倒しにくるくらいだから正直もう少し骨のある奴かと思って期待していたんだがな……これでは熾天卿の方もたかが知れるというものだ」
ヒルダと名乗った魔女は無表情のまま肩をすくめた。声の抑揚も平坦な感じで、見た目とは裏腹に落ち着いた印象を受ける。
と言うのも、一見するとこいつはとてつもなくデカいうえに、額にある大きな向こう傷のせいで、とても理性的なやり取りができるようなタイプには見えないのだ。
レイチェルの事を馬鹿にされたのは正直業腹だったが、俺自身のことは実際に自覚もあったから、腹が立つと言うよりは情けないという感情の方が大きい。けど今は生きるか死ぬかの場面だ。弱音を吐く時ではない。
「ここに来る途中、扉が八つあった。他のルートにもお前みたいな奴が待ち伏せしてるのか?」
「その通りだ。もっとも、私より弱い奴らばかりだがな」
と、いうことはだ、今頃アイビスとレイチェルもセイラムの手先共と一戦交えていると考えていいだろう。罠がある事は承知の上で進んできたが良くない流れだな。
「セイラムへ通じている道なんて初めからなかったのか。良い性格してるな」
「……おい、勘違いするなよバンブルビー。確かにセイラムは卑怯者だが臆病者ではない。進めばちゃんと会えるようになっている」
「……進めば、だと?」
「まあ、何にせよ貴様にはもう関係のない事だ。なにせ私の扉を選んでしまったんだからな」
ヒルダの言葉に感じた違和感を確かめる暇もなく、奴は猛然と右手を振った。たちまちに手に握られていた鎖がしなり、波打ち、先端の鉄球が襲いくる。
──ジャランッ!
この音を聞くと脚が一瞬固まる。もう足にも腕にも首にも、鎖なんて巻き付いていない筈なのに。
「……ックソ!」
右方向、真横に飛んで鉄球を躱す。さっきまで俺がいた場所に鉄球かぶち当たって、爆発するように地面が砕け散る。
凄い威力だな、とか感心している場合でもない。ヒルダの湾刀が既に眼前に迫っている。飛び退いた勢いを殺さないままに膝を折って上体を大きく反らすと、湾刀が顔の真上をすり抜けていく。俺とヒルダはそのまま入れ違うように交差して再び向き直る。
「ふん、鴉では逃げ足が速い奴ほど偉くなれるのか? 腰抜けめ、かかってこい」
これは挑発だ。ヒルダは確かに強いが、今の俺と実力がそこまで離れてはいない事をおそらく把握している。だから俺が攻撃を躱しても無理に追撃してこないし、魔法を警戒しているのか攻撃時以外は常に一定の距離を保っている。相当場数を踏んでいるに違いない。
俺は視界を大きくとり、ヒルダをその中央に収めながらゆっくりと深呼吸した。集中だ、集中。今現在のこの状況に集中するのではない。いつも通りに、リラックス出来るように、戦いから遠いところに置いている物に心を向けるんだ……。
『──バンブルビーはさ、むすっとしてるよりも笑った方が可愛いよ』
いつだったか、レイチェルが言ってくれたセリフが頭の中に響いた。
『──また勝手に城抜け出そうとしてたでしょぉ、でもそうはさせないんだからね。もう一人じゃないんだから、一緒に行こうよ』
声だけじゃない……顔も、差し出されて握った手の暖かさもしっかりと思い出せる。
『──ごめんってば、でも本当にお腹ペコペコで……ほんとに、倉庫荒らしはもう二度としないから、ね? 許してよぅバンブルビー」
あの時のお前のバツの悪そうな顔を思い出すと、いつも自然と顔が綻ぶんだ。だからきっと、今だって──
「……ほう、やる気になったみたいだな」
ヒルダは俺の変化を感じとったのか、鉄球に繋がる鎖を放り捨てて新しく出した湾刀に持ち替えた。何のことはない、あいつも小手調をやめただけだ。
「……押し通るぞ、ヒルダ」
「やってみろ、バンブルビー」
視線が交差した次の瞬間、どちらともなく前に踏み出した。ヒルダは二振りの湾刀を構えて突っ込んでくる。初撃は左の上段からの切り下ろし、それを右手でいなす。ヒルダの魔剣と俺が魔力で編んだ籠手が眩い火花を散らす。
渾身の斬撃をいなされたヒルダは別段驚いた様子もなく、右手の湾刀で打突を放ってきた。今度はそれを左脚の脛当てで弾いたが、やけに手応えが軽い。俺は咄嗟にその場から後退した。
ヒルダはやはり追撃してこない。
「ふん、勘がいいな。もう一歩踏み込んでいればとっておきをくれてやったんだが」
そう言った奴は湾刀の柄で自分の額をゴンッと小突いた。
「ちっ、図体の割にみみっちい戦い方しやがって」
「そう言うお前は大胆が過ぎる。魔剣相手にナックルガードとレッグアーマーで肉弾戦とはな」
ヒルダは俺の方を見て感心したように少し笑った。その間にも一切隙は見せないのだからやはりやり手だ。
「別に、この腕だと剣なんて持っててもろくすっぽ振れないだけだ」
「そうか、何なら私も素手で相手をしてやろうか?」
「舐めるな、本気を見せろ」
「くは……その意気やよし」
数舜の睨み合いの末、今度は俺が先に動き出した。身体強化を最大出力、出し惜しみはしない。ヒルダは油断していたわけではないだろうが突然懐に迫った俺に驚愕の視線を向けている。
それでも奴は振りかぶった俺の拳にギリギリで反応したのか、咄嗟に腰を落とそうとした。俺は拳を振り切らずに奴の動きに合わせて軸足を刈る。巨体がくるりと空中で半回転、その横っ腹に後ろ蹴りを捻じ込んだ。
「……っかぁ……ッ!?」
ヒルダは水切りの石のごとく地面を細かくバウンドしながら壁まで吹き飛ぶ。しかし、壁に激突する間際で体制を整えて、ちょうど壁に着地する様な形になった。二振りの湾刀もしっかりと両手に握られている。
壁に亀裂を入れながら着地したヒルダが、蹴りを放った俺を睨みつける。いや、睨みつけようとしたのだろう。だが視線の先に俺はもういない。既にヒルダの真横で顔面にパンチをお見舞いしているからだ。
「……がぁッ!?」
殴り飛ばしたヒルダはやはりすぐに体制を整える。だがそれと同時に俺の拳なり蹴りが再び巨体を吹き飛ばす。一回、二回と、何度もこれが繰り返された。
ヒルダは完全に俺のスピードについてくる事が出来ていない。しかし奴はよほど身体が頑丈なのか、何度殴り飛ばしてもすぐに起き上がってくる。驚愕のタフネスだ。
だがそれも長くは続かないだろう、起き上がれど反撃はできず、ダメージは溜まる一方。この勝負は俺がもらった──
勝利を確信した次の瞬間、ありったけの魔力をこめた拳が空を切った。
今、何が起こった?
いや、なんてことはない。ただヒルダが俺の拳を躱しただけだ……だが、それが問題だ。こいつはさっきまでそれが出来ないから一方的にやられていた筈なのに、どうして急に──
「……前言、撤回だ。お前は強い、バンブルビー・セブンブリッジ」
俺の拳を躱してゆらりと身体をふらつかせたヒルダは、そう言って血の混じった唾を地面に吐き捨てた。攻撃はしっかり効いている。顔や腕、目に見える所はアザだらけだし、肋も何本かは折れている筈だ。しかし奴は不気味に笑ってみせた。
「……簡単には通してくれないみたいだな」
「くは……お前が言ったんだろう? 本気を、見せろとな」
歪に歪んだ奴の顔にはめ込まれた瞳が、赤く染まって不気味な光を漏らしている。疑い様もない、あれは魔眼だ。
「……そういえば、魔眼同盟だったもんな」




