154.「霧と雷鳴」
【レイチェル・ポーカー】
はるか彼方の山の稜線に夕日が触れようとしている。セイラムの招待状には夜会の開始は日没と同時だと記されていた。まあ、なんとか間に合ったわけだ。
「霧が濃いね、足元に気をつけないとダメだよ」
「なんか不気味な森だなぁ……」
エリスと一時別行動になったわたし達は、セイラムが拠点を構えているという深い森の前にいた。森を進めばやがて大きな屋敷があり、おそらくそこにセイラム一派がいるとのことだ。
森には入り口を境界線にしたようにして濃霧が立ち込めている。相当近い間隔で進まなければお互いの位置を見失いかねない程だ。たぶん、っていうか……魔法、だよね、これ。
振り返れば少し前まで見えていた夕陽も、今はすっかり霧に阻まれて薄ぼんやりとしか形を捉える事が出来ない。わたしは少し前を歩くアイビスの背中を見失わないよう、意識して歩調を合わせた。
「アイビス、一応聞くけど何か作戦的なものはあったりするの?」
「敵を見つけたら殺すか半殺し、人間は保護」
やっぱりというか何というか、作戦的なものはなかった。当たり前だ、もしそんなものがあったとすれば森にずかずか押し入る前に説明があって然るべきだろうし。これはもうつまり、行き当たりばったり……って事でいいのだろうか。
「レイチェル、こいつに変な期待するな。普段ボロを出さないようにしてるだけで、基本的にバカだからな」
「ふふふ、そこまでストレートに言われると……照れる」
照れるんだ……怒るんじゃなくて。
「セイラム達は十中八九人間を盾にしてくるよね、何かもっと具体的な対策とかさ、ないわけ?」
「レイチェル、心配しすぎだよ。人間が人質になってるなら寧ろ気が楽じゃない」
「……ごめん、ちょっと意味がわかんないんだけど」
「人質ってさ、生きてるから意味がある訳だよね」
「え? まあ、うん」
「さすがの私も死んだ人間は助けられないけどね、生きてる人間なら絶対助けられるよ。どんな状況でもね」
アイビスはふふふ、と笑ってずんずん森の奥へ進んでいく、バンブルビーを振り返ると目が合った。バンブルビーは肩をすくめて見せるだけで何も言わなかったけれど、口元は僅かに微笑んでいるようにも見えた。アイビスに呆れつつも、しかしやはり信頼している。そんな風に思えた。
でも、だからこそなんだけど、エリスと別れた直後のあの剣呑な空気はなんだったんだろうか──
* * *
森を進むとしばらくして道を見つけた。今まで進んできた道なき道ではなく、明らかに人の手によって舗装された道だ。荷車か何かが頻繁に行き交うのか、道に沿って轍が続いていた。
その轍の間をなぞるようにしてさらに歩くと、急に森がひらけた。視界の先には濃淡のある霧をベールのように纏った屋敷が異様な雰囲気を放って構えている。
わたしが屋敷を見て『これがセイラムの……』と言いかけたところで空に雷鳴が轟いた。思わず身体が震えてしまう。霧でよく分からないけど、森に入る前までは雷が鳴るような天気ではなかったはずだ。じゃあ、これも魔法? でも何のために?
「──ここ、元々は怠惰の魔女の屋敷なんだってね。薄気味悪い見た目だけど、私達の城よりも案外住みやすそうじゃない?」
「この状況でそのセリフはどうかと思うけど、まあ確かに大きさは申し分ないね。霧と雷が無ければ確かに優良物件、かも?」
「セイラムを片付けた後で、原型とどめてるならもらっちまうか」
今から戦う相手はかの四大魔女の一人で、それも罠を用意して待ち構えているというのに妙に緊張感がない。おそらくこの面子のせいなんだろう。それもアイビスの存在が大きい。
きっとアイビスがいなくて、代わりにリサやタリア、ルクラブとかトーラスがいたとすれば、彼女達を守るためにわたしももっと緊張感を持てていたかもしれない。
まあ、一応今の状況でも『かすり傷以上は貰えない』という勝手な制限があるからある程度の緊張はしているわけだけど。
「よし、じゃあさっさと片付けて帰ろうか。城に帰ったらレイチェルになにしてもらおっかなぁ、ふふふ」
つい今の今まで三人で屋敷を眺めていた筈なのに、気がつけばアイビスは既に屋敷の玄関扉に手を掛けていた。瞬間移動? ていうか、そんな普通に開けていいの? いやいや、それよりも一日補佐官の話まだ継続してたんだ……。
「ちっ、油断も隙もない女だ」
「ちょ、バンブルビーまで、待ってよ!」
バンブルビーもアイビスに続いて屋敷の玄関まで一足飛びだ。もう罠とか何も警戒してないんじゃないのかこの人たち。
多少は警戒しつつ、同時にそんな自分に少し馬鹿馬鹿しさも感じつつ、わたしも屋敷に足を踏み入れた。意外にもアイビスとバンブルビーはきちんと玄関を少し入った所で待っていてくれた。
フロント……かな、ここは。灯りが一つも付いていなくてやけに薄暗い。窓はあるけど外は霧が凄いし、そもそももう夕暮れ時だから霧が無かろうが大した関係ないか──
「──ようこそ鴉の皆様。セイラム様がお待ちです、どうぞあちらへ」
不意にフロントに響いた声に、わたしは意表を突かれた。声の主はフロントの中央、闇に紛れるようにして立っていた。
人間だ。
四十代くらいだろうか、給仕服のような物を着た女がそこに立っていた。女は明らかに私達の方を向いているのだけど、なんというか、そう、目が虚だ。あの瞳は本当にわたし達の像を映しているのか。
「あっちだってさ」
アイビスは何の躊躇もなく、人間の女を特に意に解する様子もなくスタスタと廊下を進み始めた。もうね、いちいち驚いたりするのも疲れてきた。変に緊張している自分がおかしいのか、もう何でもいいけど。
「──どうぞこのままお進みください。セイラム様は地下でお待ちです」
広い廊下を進み、突き当たりを曲がり、さらに直進するとまた人間がいた。今度は男性で、しかし目は虚だ。なんだかこの目には見覚えがあるような気がしてきた。どこで見たのだったか……そう、あれは確か、ジューダスと一緒に怠惰の魔女を討伐に向かった時だ。
ジューダスが塔の上でまんまと、というかわたしを庇ったせいだけど……バベなんとかの魔眼で操られてしまったとき、あの時の目にそっくりなのだ。
胸騒ぎがする。あの時も初めこそ余裕綽々な感じだったけど。蓋を開けてみれば実際かなり危険な状況だった。
四大魔女のジューダスは怠惰の魔女の手に落ちて、わたしはバラバラ、というか粉々にされた。わたしじゃなかったら確実に死んでいただろう。同じ轍を踏むわけにはいかない。用心しなければ。
「ねぇ、アイビス。なんか嫌な予感がする、ほんとに気を付けて進んでね」
「ふふふ、今日日わたしの身を案じてくれるなんて、優しいレイチェルくらいのものだね。嬉しいなぁ」
「もう、真面目に言ってるんだからね」
アイビスはクスクス笑いながら、地下へと続いている下り階段へと足を伸ばした。わたしとバンブルビーもその後に続く。
「……バンブルビー、今何か言った?」
「……別に」
階段を降り始めてすぐに、後ろから小さな声が聞こえた。バンブルビーに確認したところ否定されたけど、確かに聞こえたのだ。物凄く小さな声で、囁いたというか、つい声が漏れたような、そんな感じの声。『……地下か』と──




