第84話 入隊初日
遡る事数週間前。ロングラス大平原での白軍との衝突を前に、ブラキニア帝国内は慌ただしく準備を進めていた。
「いいか! 幾度となく続いてきた白軍との戦闘も恐らくは今回が山場だ! 準備を怠るなよ!」
「し、しかし隊長。北の防備に多数回っている以上、白軍とでは数で劣るのではないでしょうか?」
「今回は黒王様が直属の親衛隊を連れて、直々に戦地へ赴く! 大きな戦いになるぞ!」
「な、なんだって!? 黒王様は勿論だが、五黒星の方々も来られるのか! これは勝ったも同然だな!」
黒軍兵は互いに顔を見合わせ安堵の表情を浮かべる。皆、やはり怯えているのだ。いつ死ぬとも知れない戦場は行きたくない、内心そう思っている人間が殆どだろう。勿論、そんな事を口にした途端に疎外対象とされる事は言うまでも無い。
「分かったらさっさと兵を集めろ! 恐らくこちらにも敵の諜報員が紛れ込んでいる。情報は多少なりとも知られていると仮定した上で、数で圧倒するんだ! しかし敵陣にも同様に強力な布陣が予想される」
「う、マジかよ……五清白だったか。白王の側近にして白軍戦力の大半をたった五人で補える程の実力だって聞くぞ」
「それに、そいつらにも匹敵するって言われてる霧の悪魔もいるんだろ」
「オレは見た事もねえ五清白とやらよりも、その霧の悪魔の方が余程怖いね」
「そうそう、霧に飲まれたら最後らしいぞ。息が出来ないらしい」
「馬鹿か? なんで霧なのに息が出来ねえんだよ、煙でもあるまい。アハハ」
様々な会話は、これから死地へと赴く兵達の気を紛らわしていく。大半は色力に目覚めていない凡庸な兵達。それだけ色力を有した存在は脅威だった。
そんな中一人うだつの上がらない兵がいた。
「おいどうした? ジン」
「良いよなお前等は」
「何がだよ」
短く切りそろえられた黒髪、襟足だけが長く赤く結われ背骨まで垂れ下がっているこの男性。小村で帰りを待つ少女ノンの父、ジン・クロッカだった。
「戦果を上げればそれだけ報償を貰えるじゃないか」
「お前バカか? 死んだら金なんか貰える訳ねえじゃねえか」
「それでも家族に、娘には貰えるだろう?」
「自分が死んでりゃ訳ねえよ、ハハハ! ま、お前は今回、北の防備に回されたんだ。文句なら上に言いな」
「はあ……」
少しでも娘に、故郷の村に裕福になって欲しいと黒軍に志願したジンだったが、当人は思う様に貢献できずにいた。決して能力が劣っている訳では無かった。ただ、機会が中々与えられなかったのだ。
「ザハル様! 斯様な所にどうされましたか?」
「気にするな、下見をしに来ただけだ。準備を進めておけ」
「ハッ!」
肩を落とすジンは、ブラキニア帝国の王子であるザハルが背後にまで迫っている事に気付かず、下を向いたまま後ろを振り返る。
「痛っ! 悪い、余所見をしていたよ」
「気付かない程オレは存在感が無いか?」
「ッ!?」
ジンはザハルの足を踏んだまま驚きともならない声を上げる。
「いいからその足をどけろ」
一般兵が王子の足を不注意の所為で踏みつける。考えただけでも未来を危ぶむ行動。ジンはすぐさまザハルの足元へと屈み、薄汚れた手拭いで踏んだ跡を磨き上げる。
「ふう、綺麗になった。危ない危ない、これでまだザハル君に履いてもらえるな」
「大衆の前でその呼び方はやめろと言った筈だ。王族に対する不敬罪と見なされても知らんぞ」
ジンだけは違った。ザハルは王族、この国の頂点に位置する存在にも関わらず、ジンは気さくに話しかけていた。
――当時、小村という片田舎から帝都へと来て間もない時だった。それなりにガタイの良い彼は、入隊希望者の集う駐屯所へと赴いていた。容姿様々な人だかりの中にいた彼は、どこで入隊試験を受ける事ができるのか右往左往しており、偶々目の前にいた少年に声を掛けたのだった。
「おいそこの角マント君。入隊希望なんだが、どこに行けば入れてくれるか知っているかー?」
ジンの言葉が、何故か響き渡る程に周囲が静寂に包まれた。その発言には耳を疑う者しかいなかっただろう。
(お、おい。嘘だろ……)
(あ、アイツ死んだな)
(どこの田舎から来たか知らねえけど、流石にザハル様にそれは……ここ最近の入隊者は全てザハル様がふるいに掛けてるんだよな。機嫌が悪くなるじゃねえか)
「あん?」
ジンの右手がザハルの左肩に置かれている。勿論、ジンは何故周囲がこんなに凍り付いているかは知らない。
ザハルはゆっくりと肩に乗せられた手を振り払い、ジンを睨みつけた。
「てめえ……舐めてんのか?」
「あ、ごめんごめん! まだ子供だもんな! お父さんと逸れたのか? お父さんは何処だい?」
(ヤバイ、ヤバイよアイツ。ザハル様の表情がぁあ)
最早周囲の人間は事の顛末を見届けるしかなかった。地雷は踏みたくないと言わんばかりに皆後退りしていく。ザハルの影は、徐々に人の形から崩れていく。まるで影すらも怒りを表現しているかの様に。
「父か。父ならば恐らくブラキニア城の玉座の間にいるだろうよ」
「……?」
一時の時間が流れ、いや止まったかの様な感覚はジンだけでは無かっただろう。
「も、もしかして君のお父さ……父君はガメル・ブラキニアと、仰い……ます……か?」
「そうだが? 我が黒軍に何か用か? 三下がぁ!!」
もう遅い、もう遅いのだ。ジンは夢と希望を抱き帝都へ来たばかり。が、既に死亡フラグが立っている。
「ひいいいええああああああ! 申し訳御座いませんんんん!」
「てめえ、待ちやがれ! オレへの不敬、許さん!!」
ジンは考える事を止め、一目散に逃げていくのだった。




