第187話 覚悟の上で
「なんだこの空気は」
「やけに湿度が高い。オレはナインズレッドの生まれだから湿気にはそれなりに慣れているが、ここは異常に気持ちが悪いな」
「湿地帯やからちゃうん」
「にゃぁ~ん」
「こなつもなんか嫌がっとるわ」
オルドールが戦闘していた場所へと戻って来たザハルら三人だったが、そこに二人の姿は無く、高湿度特有の蒸れた空気だけが辺りを包み込んでいた。
「おいザハル、これを」
アルが地面にしゃがみ込み何かを発見する。
「これは、足跡か」
「この小さめの跡はミルちゃんのやな。って事はこっちがドーム。んで指先に爪が食い込んだ様な跡があの竜人かいな」
「ナコシキ、どう見る」
一帯に広がる三つの足跡を見たマミは、暫く考え込んだ後に口を開く。
「竜人の足跡が少ない。動きが少ないって事は遠距離タイプやないか?」
「いや待て。遠距離タイプなら何故その周囲にドームの足跡がこんなにも有るんだ。それにミルらしき足跡も異常な数だ。遠距離タイプなら距離を取ろうと下がる筈だが。その場に留まり防戦に徹している様に見える」
「ふーん、やるやん赤いの」
「オレにも名前は有る」
「すまん、アルやったな。有るだけに」
「……」
「……コホン。んでも竜人が押し込まれた様な跡は無いで。逆にドームとミルが後ろにずり下がった様なもんばっかりや」
「攻めあぐねた結果、反撃を食らったと見るのが妥当か」
「それにさっきより明らかに空気が気持ち悪い。あの竜人の色力と関係があるのかも知れないな」
「湿地帯やからやろ」
「……」
「なんやねんアンタら! さっきからノリ悪いなぁ! まだハゲの方がマシやわ!」
三人は更に周囲の足跡を分析するも、やはり導き出した答えは同じだった。
「二人掛かりでも崩す事は出来なかったと言う訳か。だがどういう事だ、血の跡一つ無いぞ」
「気になるのがこれだ。あの竜人の後ろから歩いて来るもう一つの足跡」
「んーこれも竜人と同じ爪の跡があるな。やけど儂には分かる、これは女の足や」
「女の竜人と言えば御姉ヶ島に居た妹の方か?」
「分からん。やけど、そいつはドラドラが食い止めてるんちゃうんか。悲観的な考えを捨てるんやったら、他にも竜人が居るって思った方がええやろな」
「もしかして、ルシエ・ティアルマート」
「そのルシエってのが女? 雌? なんかは知らんけど、その足跡から遠ざかる様にこの竜人が下がっとる所を見ると、味方から後退りする程って事だけは分かる」
「オレ達はどんな相手とやり合おうとしているんだ」
「おい、覚悟がどうとか言うてたんはどうなったんや。ちょびーっとヤバそうな奴の影が見えただけでヒンヒン言うなや。曲がりなりにも王子様の側近やろ」
「そんなつもりでは無い」
「そんなつもり、ねえ。それは言い訳する奴の常套句やで」
「……」
「ま、身内で貶し合っててもしゃーないな。ほな先に行こか」
「行くって何処へだ」
「はあ? アンタ何しに来たん? ルシエんとこ行くんやろ? なら奥の親父島とか言うとこに決まっとるやんけ」
「リムの姿も見えない。これだけ四散した状況でオレ達だけが乗り込むのは危険だ」
「ハゲがおらんだけでオロオロすんなや。アイツはそんな簡単にくたばるんか? 儂より付き合い長いんなら分かるんちゃうんか?」
「長いと言ってもまだ数日程だが」
「えッ!? もう何か月も前からおるんやと思うてたわ。なんか急に心配になって来たわ。たかが数日の付き合いの人間同士が、仲間やなんやって言うてんのか。大丈夫かいな……」
そう、彼らはまだ一週間程の付き合いでしかない。それだけ激動に激動を重ねた、濃い日々だと言う事。リムにとってはこの世界に転移してきてからは目の回る日々だろう。だがひと月も経たない状況の中、順応性は目を張るものだ。
「とりあえず、や。依頼を受理した人間が不在やとしても生死が分からん以上は儂に従ってもらうで」
「何故お前なんだ」
「ああん? 誰に依頼されたかも忘れたんか? 儂はナコシキやで。依頼主の現地代理人とでも思うとけボケ」
「んぐ……」
マミの発言は一つ一つが論理的であり、更に安定した口の悪さにより周囲を黙らせる。ザハルらはマミに言われるがまま、奥に鎮座する親父島へと足を進めるのだった。
一方マミらが去った殺戮現場と化した浜辺では、数十人を超える死体が無尽蔵に横たわっていた。そんな中、何やらもぞもぞと動く気配が一つ。
(ふぅ……まだだ、まだ息を殺せ。あんな理不尽な奴と真っ向勝負する必要はねえ。仲間の首が全部飛びやがった。あの女、バケモノだ。依頼主だか何だか知らねえが、オレ達急造の調査隊なんか所詮捨て駒だろうよ。だけど、捨て駒にも意地ってもんがあんだ。何が何でも生きて帰って報酬を貰う。死んだコイツ等の分も貰うんだ。コイツらの分まで……クソッ! あんなに楽しそうに報酬の使い道を話してた奴らが、クソッ! クソクソクソッ! アイツ等の家族になんて言えば良いんだ。コソコソ隠れて生き延びたなんて知れたら恥曝しもいいとこだ。だが、あんな奴等を前にしたら自分が如何に小さいかが分かった。逃げる他無かった。まるで赤子だな。世間知らずのガキとでも言わんばかりに冷たい目をしやがって……クソッ! 何が色操士だ、何が色力だよ! オレ等みたいに力の無い凡人は夢を見る事すらも出来ねえのかよッ!)
首の無い仲間の亡骸に埋もれて身を隠していた一人の男は、静かにゆっくりと周囲を確認しながら這い出る。
「もう居ない、みたいだな……これからどうする。力も持たねえ凡人が一人立ち向かったって何の役にも立たねえ。リーダーの言う通り、適当な言葉を並べて調査報告するか。とりあえずアカソに戻ろう」
男は仲間全員の装飾品等を拾い集め、遺品として持って帰る事にした。
暫くした後、漸く集め終わったものの全て血みどろ。小さな麻袋に詰め込んだ装飾品から染み出て来る血が悲しく滴り落ちていた。
(みんなすまない、身体は持って行けねえ。お前らの身に着けていた物で勘弁してくれ。魂があるならこれに宿る事だな)
男は集め終わった麻袋を肩に掛け、滴る血の道を作りながら陸へと向かう。だが何処か晴れない男は、足を止め考え込んだ。
(何してんだ。オレは何してんだよ。仲間の遺品なんか背負って何がしたいんだ。コイツらの家族にコレを見せてオレは何て言ったら良いんだ。違うだろ、オレ達はリスクを承知で家族の反対をも押し切ってここまで来たんだ。端から戻るつもりは無かった。報酬を貰って気ままに過ごすだなんて夢のまた夢。そりゃ誰も戻ってこない仕事の報酬額にビックリはしたさ。だけど内心そんなもの受けた所で無事な筈が無いとは思ってたさ。案の定、みんなの首が飛んだ。オレも何の役にも立たなかった。何の役にも……? オレは何もしてないじゃないか。ただ命を捨てに来ただけなのか? いやそんなつもりは無い。オレだってプライドは有る。犬死する位ならコイツ等の為にも一矢報いてやるのが仲間ってもんじゃ無いのか? そうだ、そうだよ! オレはコイツ等の遺品をティアルマートに投げ付けて言ってやるんだ。『オレ達を殺すなら遺品を探しに他の奴等が来る。お前はその因果から抜け出せないんだ』ってな! 笑ってやる。人間としての爪跡を残してやるんだ。コイツ等も分かってくれる筈だ!)
「利益の天秤は、益があってこそ保たれる均衡ってか」
「ん?」
男が意識朦朧とする中、一つの影とすれ違った。
「だ、誰だ!」
「益と言う支えを必要としなくなった覚悟ってのは恐怖を知らねえ。いや、相手に恐怖を与えるモノ、か」
「なんなんだお前は」
「だが秤に収まっていたリスクが崩壊した天秤、皿と言う枠から解放されたらどうなる? 縦横無尽に広がる液体の様に周囲を飲み込む、だろうな」
「さっきから何ブツブツ言ってやがんだ!」
「お前に恐怖を与えに来たモンだ」
何処からともなく現れた男、八基感情の上位体《恐怖のテッロ》。彼は恐怖を克服した男に興味を持った。恐怖から抜け出した人間の強さは一般人の比では無い。恐怖の感情を収集する一方、それに関する事象を観察する事で、より効果的に恐怖を収集しようとしているのだ。
「人は恐怖には勝てない、克服なんてしていない。それが何故だか分かるか? 頭が、脳が記憶しているんだぜ。逆行再現」
二個の緑色をした眼球が、テッロの後方から現れる。フワリと男の前まで移動すると、二個の眼球と男の目が合う。突如、男の脳内に先程の凄惨な光景が走馬灯の様に流れた。男の顔色は見る見る青ざめていき、終いには焦点が定まらなくなる。
「う、うわああああああああ! やめろぉおおおお!」
「人は恐怖を抱えて生きている。そんな簡単に忘れる事なんてできやしねえんだ。リアルタイムで出て来た恐怖も新鮮で旨い。だけどよ、こうやって記憶から呼び起こされた恐怖も、一味も二味も熟成されて出てくんだ。堪んねえなあ!」
「うわああああああああああ! 来るな、くるなああああああああ!!」
発狂した男は、殺戮のフラッシュバックに戦慄き悶え苦しむ。仲間が首を切られる様を見て、自身の首の事の様に掻き毟り始めた。
「あがぁ! うわぁああ! がはっ! あぐぁああああ!」
「うーん。中々の味だ」
乱れ狂う男の姿を見ていたテッロは、甘美な表情を浮かべている。
その後、男は周囲に血を撒き散らしながら湿地帯に倒れ込むのだった。
「さて、次のターゲットは……」
テッロは親父島を見上げると、浮遊していた眼球と共にゆっくりと足を進めるのだった。