第179話 動く恐怖
――――とある辺境の古城にて。
以前、感情整地が行われていた部屋に、黒い外套を纏う三人の姿があった。
「おいヴィジーランス、珍しいじゃねえか。んくっんくっぷはー! 久しぶりに飲んだぜ。オレ様達八基感情を万能に潤す水、情働水はやっぱ最高だぜ」
一人の男が透明なコップに注がれた、如何にも毒々しい緑色の液体を飲み干し、机に叩き付けた。もう一杯飲みたそうにしているが、周りを見渡しても容器の一つも見当たらない。
「んで? 今日はお付きのアンチーシが居ねえな」
「大丈夫。私、今日、警戒する人、居ない……」
「相変わらず暗い喋り方なこった。テメエが警戒する奴って言ったら、レイジくらいか。それよか、そりゃあどういう事だ。オレ様が警戒に値しないって言うのか? この《恐怖》のテッロ様によぉ」
「テッロ、貴方、存在、薄い、から……」
「あんだって!? バカにしてんのか! 女だからって容赦しねえぞ!」
環状の机の東に座るは、八基感情の上位種《恐怖のテッロ》。八角形の北西に座るのは、同じく上位種の《警戒のヴィジーランス》。ヴィジーランスの目の前には、オレンジシューズの様な橙色の飲み物が置かれている。
「嗚呼、始まるのね。男が一方的に女を嬲るのね。嗚呼、なんて悲しい事なの」
「うるせえぞグリフ! テメエもそうだ! 《悲観》の座に居るからってシクシクしてんじゃねえよ。場がしんみりしちまって敵わねえったらないぜ」
「でも、折角ヴィジーが表に出てきたって言うのに集まったのはこの三人だけ。嗚呼、なんて悲しいの」
南に座る《悲観のグリフ》の前には、真っ青な飲み物があった。
三人とも別の飲み物の様に見えるが、実はテッロと同じ情動水。コップに注がれた時にはどの情動水も無色透明。だが不思議な事に八基感情がコップに触れた時、その感情種によって色味が変化しそれぞれの好む感情色へと変化するのだ。味も変化し、それは本人達の好みによる影響を受けやすい。
「はぁ、ったく。それもそうだ。残りの五人はどうしたんだ。おいグリフ、おかわり持ってこい。今日はあの御方の招集じゃねえのかよ」
「違う、今日、私、呼んだ」
「ああ!? どういう事だ。フィアーが、今日は重要な話があるから早めに到着する様にって言ってたのは嘘か!?」
「嗚呼、悲しい悲しい。中位体は上位体には逆らえない定め。いくら感情種が違えども、他の上位体の機嫌を損ねれば迷惑が掛かるのは自身の上位の人。嗚呼、なんて従順で可哀想な立場なの」
「テメエがオレ様んとこのフィアーを誑かしたってのか!?」
テッロの注文に応えたグリフが、部屋の奥から情動水の入った容器を持ち寄る。だがテッロが机を蹴った事で注いでいた情動水が零れ、机に染みわたって行く。
「嗚呼、零れてしまった。なんて悲しい」
「そんな、つもり、無い。あの御方、招集、しないと、皆、集まらない。でも、重要、一番、鋭い、テッロ、絶対、来る」
「そりゃそうだろうよ。重要と聞かされればあの御方からの話だと一番に思い付くぜ。ケッ! 良い様に動かされた訳か、ったくよ。で? 重要ってのは何なんだよ」
「私、毎日、ライカ、警戒。この前、アンちゃん、言ってた。『《嫌悪》、飲み込んだ、灰色、古龍一族、一緒』。灰色、今、古龍、住処、向かってる」
「だからなんだってんだ。オレ様もあのティアルマート一族には助かってはいるが、だからってオレ様と何の関係があるんだよ」
「嗚呼、貴方は感じないのね、なんて悲しい。例の古龍が人間に植え付けた恐怖の所為で、めっきりあの島に近付かなくなった。テッロが欲している恐怖があの島から薄れていく。嗚呼、悲しい」
「ああん? 別にオレ様はあそこだけに執着してる訳じゃねえよ。恐怖なんてこんなだだっ広い島の何処にでも転がっている。そりゃ感情収集の拠点が一つ潰れるのは望んではいないが、完全に無くなる訳でも無いだろうが。幸いあの島には隔離されている人間もまだ多い。生かさず殺さずの状態で保ってくれているティアルマートには感謝だな」
「アンちゃん、下位体亜種、《心配のウォーリー》、仲良い。ウォーリー、色占、得意」
「色占ってあれだろ、無数にある色素を生物から抽出して混ぜ合わせた色味で占うとかっていう。戦争で死んだ人間や動物の死体を漁って色素を集めてる気色悪いガキだろ」
テッロが自身のコップに小指を付け、机に零れた表面張力で盛り上がった情動水に一滴垂らした。溢れ出た透明な情動水が緑色の情動水と混ざり、やがて木製の机に染み込んでゆく。
「アンちゃん、予測、ウォーリー、色占。二人、相性、良い。いつも、話、尽きない、らしい」
「で? その色占のガキが何か出したのかよ」
「赤、青、動きて、紫と、なる」
「的を射ない占いだな。赤青っていえばティアルマートなのは分かるが、紫になるってのはどういう事だよ。アイツは混色派生で二色になったんじゃなく、純色に近い赤と青を兼ね備えた化物だぜ。自分自身で混色派生するなんて聞いた事もねえし、それを出来る奴ぁ限られてる。アイツレベルなら自分でやったとしても驚かねえが、前例が無い以上出来るとも思わねえ」
「嗚呼、なんて悲しい。貴方は前例が無いだけで可能性を捨てる愚かな人なのね」
椅子の後ろ脚に重心を乗せ器用にバランスを取るテッロが、コップに残った水滴を仰ぎ飲む。
「んそうは言ってねえよ。ただ、やる必要性も無けりゃ試みる事も無いだろうが。可能性は限り無くゼロ、だ」
「古龍、動く、あの島、何か、起こる」
「もう千年以上もあの状態だ。何回か激しい動きはあったが、今回も大事にはならねえだろうよ」
「違う、灰色」
「だからその吸収するって奴がどうし……まさかッ!?」
「嗚呼、気付くのが遅いテッロは何て悲しい存在なの。私は既に答えに辿り着いたというのに」
「《嫌悪》、吸収、された。あの島、恐怖、吸収、テッロ、困る」
「ああ、それは一大事だぜ。時の流れで薄くなっていくのはどの感情も同じ。だから自然的でも少量の感情が続けば問題無いが、意図的に感情を根絶されるのは黙っちゃいられねえ」
「テッロ、分かった、私、嬉しい」
「ああ、オレ様の部下を誑かした事は許してやる。だが覚えておけ、次は無いぜ」
「嗚呼、悲しい。今回も私の出番は無いのね」
「知らねえよ。テメエはブラキニアの民衆からでも悲しみを啜ってろ」
「憎悪と悲観に満ちた帝国……」
「じゃあオレ様は早速ファミリア諸島へと向かう。あの御方の招集があれば早めに戻る」
ガタリと乱暴に椅子を蹴とばすと、ゆっくりと部屋を後にするのだった。