第164話 愛から最も遠い場所で
マミに抱き締められたカズマは、抵抗する事も無く手をダラリと脱力させていた。
「あんな? アンタがどんなしんどい思いしたかは儂には分からへん。どんだけ聞かされても、どんだけ訴えられてもな、アンタ自身や無いねん。それを共感して貰おうなんて無理にも程があるんよ」
「なんでだよ。それが愛ってモノじゃないのか? お前ら、愛を受けた奴らなら分かるんじゃないのか!?」
「アンタ、愛を知らんねやな」
「なんだよ……愛ってなんなんだよ」
「儂もハッキリした事は分からん。もう聞く事も出来ひん。でもな、それやからって周りに絶望を押し付けるんも違うと思うんや」
「違わない! 絶望は人を愛へと導いてくれる。それはオレが良く分かっているんだよ。何も起きない腐れ淀んだ世界に愛は実感できない。何故か分かるか? 愛を欲する必要が無いからだよ。じゃあ愛を必要とする世界ってなんなんだ? 絶望が蔓延り、死が闊歩する世界こそ愛が光る。そう思わないか? だからオレはこの世界に絶望をもたらす。そうすればオレの欲した愛が見つかるかも知れないだろ? 手始めに目障りなアステリ、お前らを……ッ!」
「アンタ……」
「お前だってそうだろ。愛を実感できた事はあったのか? 何をもって愛と言えるんだ? こんな微温湯に浸かり、ふやけてしまった世界に生きる意味があるとでも思うのか? オレがそこに意味を与える、人間に愛を与える側の人間なんだ」
カズマは抱き締められた腕を振り解き、後方へと飛び退く。だが既に、背中からマミの爪による毒がまわり始めていた。倦怠感が襲う身体に鞭を打ち、再びマミへと重力弾を飛ばし始める。
「アンタは愛を知らんから、自分の解釈でしか愛を語れへん。儂かて同じもんかも知れん。両親から受けた言葉なんか、そこら辺に吐いて捨てる程の大したもんでも無い。やけどな、それでも儂は爺から愛を受けて来た。アンタが言う愛のカタチは肉親に限らへん。誰からでも愛を受ける事が出来る。それは絶望を抱く必要なんか無いで」
「どうとでも言えばいい。そんな他人の育んて来たモノなんてどうでもいいんだよ。ハッキリしている事、それはオレが絶望を味わって尚且つ愛さえも与えられなかった。ただ、それだけだ。この目で見て来た事が真実なんだ。だから、オレは絶望という愛から反した物で愛を導き出す」
愛のカタチは幾つか。その愛に辿り着く手段もまた幾つか。歪んでしまった心には、歪んだ求め方しか出来ないのだろうか。
その時、ふとカズマの目を見て現世の記憶がフラッシュバックした。
「アンタ、もしかしてあの時の」
――マミがまだこの世界に来る前の事だった。夕暮れ時に団地の中庭で、友達と楽しくボール遊びをしていた時の事。
「あーもう! 変なとこ蹴るなー!」
「ごめんごめん! 足滑ってもーたー! ん?」
蹴り損ね、相手の遥か頭上に浮き上がったボールの先の窓辺に、虚ろ気な少年の顔を見た。
「なんやアイツ。おない歳の子かなー。おーい! 一緒に遊ばへんー!」
「……」
一同マンションの五階に視線を向けると、そこにはただ無言で佇むカズマの姿があった。カズマからは何も返事が無い。いや、この距離では何を言っているかも分からない。マミは反応の無いカズマを不思議そうに見つめるも、気が向けば来るだろうと気にもしなかった。
数日後だった。かの部屋で一家惨殺事件が起きた。
「えー、現在私は事件があった団地の公園から中継しています。辺りには既に警察によるバリケードが張られ、近付く事は出来ません。えー。情報によりますと殺害されたのは、C棟の五階に住む母親と子ども一人と言う事です。犯人は依然逃亡中との事で、近隣住民の方は――」
テレビ局の報道アナウンサーがこぞって団地を占拠し始めた。マミは訳が分からなかった。あの部屋、あそこはあの子が居た部屋。気が向けば来るだろう、少年へはそんな軽い気持ちしか無かった。それが気付けばこの騒ぎ。
「え? あの子、殺された、ん?」
「そうらしいね。この前部屋から覗いてた子やろ?」
「うん。なんかボーっとしとった」
「怖いね」
「うん……」
あの時、もっとしつこく誘っていたら何か変わっていたのだろうか。身近で起きた凄惨な事件、名前も知らない似た歳の子どもが殺された。それがどういう事なのか。いや、何も無い。マミや周りの子どもからしたらどうでもいい事。名前も声も知らない。一瞬見た事のある程度の子どもが死んだからなんなのだ。情も無い。団地なんてそんなもんだろう。
同じ建物に住み、密集した中で生活しているも一つ壁を隔てれば赤の他人。どれだけ人が集まろうが、薄皮一枚隔ててしまえば誰が何をしているかすら気にも留めない。マンションとはそういう物だ。寄り合い協力して生活しているなんて都合の良い言い方に過ぎない。
階上の生活音に悪態を付き、両隣の騒音にイラつきを覚え、だが夜が明けると何食わぬ顔で挨拶を交わす。なんて矛盾した生活だろう。
隣の部屋の住人の名前すら知らない。挨拶なんか顔を見ずとも交わせる。それが当たり前の状態を生みだした建物は、情や愛からもっとも掛け離れた物だった。
あの時、何かしていれば何かが変わった? その何かとは何? 普段から他人に興味を示さない人々は、そんな答えようの無い、答える必要の無い問を自分の中で議論し、導き出す事も無く日々を過ごすだけ。
「アンタ、あの時殺された子なんか?」
「ああ? お前が思っている子かどうかなんて知らねえよ」
それもそうだろう。お互い記憶なんてものは過去に置いて来た。今更どうする事も出来ない、どうでもいい過去だ。
「儂、多分あの時アンタを見たんや。中庭からアンタを」
「どうでも良いんだよ。今更過去を振り返った所で何も変わりはしない。オレはあんな愛の無い腐った世界なんてどうでも良いんだ。今は、ただこの世界を絶望に」
「話をしても埒がアカンねやな。アンタはもう愛を見失ってしもてる」
「五月蝿い。うるさいウルサイうるさイ!!! オレの導き出した正しい愛を受けられない者は、オレと共に来る資格なんて無いんだ!!」
「そうかも知れんな。儂はアンタに共感できひん。そうやって世界を絶望に陥れようとする気持ちも全く分からん。そんな狂乱思考には付き合い切れんわ。死んでもらうで」
「オレは愛に看取られるまで死なない!! 絶望よ、前へッッ!!!」
カズマは巨大な重力弾を形成し、マミ目掛けて押し出す。幾らマミの身体と言えど、ここまで大きな重力弾を受けて無事では済まないだろう。だが、マミは避ける事もせず正面で受けたのだ。
チリチリとマミの身体が重力により引き剝がされていく。が、瞬時に元に戻る身体。
「悪いけど、どんなもんも儂には効かへん。アンタは儂には勝てへんのや」
「五月蝿いウルサイうるさい!!! 絶望よ・広がれッッ!!!!」
衰える事の無い重力弾は、更に威力を増して膨張し始める。
「愛を欲するが故に、愛を見失うって言うんか。本末転倒よな。儂はそうならん様に在りたいわ」
如何に強大で、絶大な色力を有していようともマミに膝を付かせる事は出来なかった。吸引力が衰え始めた重力弾は次第に縮小していく。終いには豆粒ほどの大きさへと縮こまり、消滅してしまった。
「馬鹿な! オレの力は絶望その物! 愛を与える為の必要な色力! そんな力が負ける筈が無い!」
「どれだけ自分が正しいと思っててもな、勝てへん時は勝てへんのや。それが世の中ってもんちゃうんか」
再び詰め寄ったマミは、カズマの四肢に桃毒爪を刻み付けた。
「くぁ!! こんな事でオレは、死ぬ、のか」
「安心せえ、濃度は強めや。直ぐに逝けるで」
「ん、カハッ」
カズマはほんの僅か苦しんだ後、力を抜く様に地面に倒れたのだった。
「アンタも……アンタも歪む事が無かったら、この世界で楽しく生きられたかも知れんのにな……」
地面に伏すカズマの背中を優しくさするマミの瞳から怒りは消えていた。