第148話 愛に真っ直ぐに
妻アマネは不妊症だった。それに気付くには少々時間がかかる事になる。
夫イロウはアカソ台頭に日々奔走している中、彼女もまた裏方での補助を怠らなかった。子どもなんてつくる暇も無かった。
毎日多量に届く手紙の数々。商人達のせめぎ合いでの苦情や流通の決済書、三大富豪とのやり取りから他国との連絡まで。拡充を進める夫はひたすら前を向き、妻は事務処理に徹した。
勿論、そうとなれば家事など出来る筈も無い。屋敷の事は全幅の信頼を置く執事長ダロンに任せ、ナコシキの発展を支え続けた。
屋敷に帰る事も少なかった夫とは夜も碌に過ごせない日々。一人自室に籠り、淡々と事務処理を続ける姿に執事長ダロンも心配していた。
このまま名を売り続ければ二人には更に時間が無くなるだろう。主に進言するには中々度胸がいるものだが、ダロンは今後に関わる重要な事と捉えイロウの前へと立ったのだった。
束の間の休息日、イロウは書斎で風を感じながら書籍を捲る。そこへ扉を叩く音が優しく室内に響いた。
「私です、ダロンです」
「入れ」
「失礼します」
ゆっくりと開けられ一礼するダロンの雰囲気を感じ取ったイロウは、溜息を付かざるを得なかった。
「ダロン、頼むよ。今日は久しぶりに帰って来られたんだ。お前の小言は書置きでもしておいてくれないか」
「そうもいきません旦那様。私めは心配しているのです。今のナコシキ家の勢いは目を見張る物があります。ですが、このまま進めばいずれ壁にも当たりましょう。何処かで一旦緩める事も必要なのでは」
「何が言いたい。それは壁に阻まれてから考えれば良いだろう? 今の勢いは止める事は出来ない。欲を言うなればもっと加速したい位なのだ」
「奥様を置いて、ですか?」
「……」
アマネの名前を出された途端にイロウの言葉が詰まる。
「勢いと言うものは必要でしょう。ですが、それが平常化すれば周囲の関心は薄れてきます。緩急を付ける事で常に注意を引けましょう」
「だが商売とは――」
「旦那様! 奥様と最近会話はされていますか?」
「い、いや……」
「旦那様の仕事を支えている奥様にも速度という物が御座います。私達は旦那様に着いて行くだけです。旦那様が速度を上げれば昼夜問わず走りましょう。ですが、奥様は違います」
「……」
「伴侶として御傍に居られるのであれば、歩幅は合わせるべきではありませんか?」
「ダロン……」
直立不動で物申すダロンの姿がなんと大きなことか。真っ直ぐ見つめられたその瞳からは、怒りでは無く付き従う子の様な戸惑いや見守る親の様な心配そうな、そんな複雑な視線が送られていた。
「だがな、ダロン。私達は止まっている時間など無いのだ。東では今もホワイティアとブラキニアの小競り合いが絶えない。しかしそれはいつ終わる? 明日かも知れない、今日かも知れない、今この時にどちらかが鬨の声を上げる可能性も有り得る」
――リムがまだライカ、この世界に来る前から白と黒は争っていた。両国が島を両断する形で戦争を続けている。ホワイティア王国は比較的温厚で、隣接国を圧力で従えようとはしなかった。対するブラキニア帝国は、上は北方諸国とも牽制し合う状態。左は小国ナヴナウまで属国としていた。その目と鼻の先には商業大国アカソが有り、万が一ブラキニア帝国が足を伸ばしてこようものなら、武力で勝てる筈も無かった。
武力で勝てないのならばどうする。イロウが目を付けたのは国の位置にあった。島国のほぼ中央に位置するこの国を更に発展させ周辺国、いや全土が必要とするいわば商業の中枢となれば、中立に近い立場で世界に台頭できると踏んだのだ。
各国と繋がりを持ちそれぞれに必要とされる国になれば、独占的な国家は悪となり我が正義と立ち上がる者も居よう。そうすれば自然と各国がアカソという国に迂闊に手を出せなくなる。中立且つ力の持つ国へと成す事が可能と考えたイロウは、若輩ながらもアカソ一族へと身一つで向かっていったのだ。
何故イロウがそこまで拘るのか。若かりし頃の何処にでもある約束。妻であるアマネを愛し、幸せな家庭を築くと誓った。
庶民の出でありながら、貴族のアマネを愛し故郷から連れ出した。追ってに差し向けられたのがダロンだった。アマネの家系に代々仕えてきたダロンは、容赦無くイロウを追い詰める。二人きりで逃げ惑うなか、街一つを占領するかの如く人数を駆り立て執拗に追いかけた。
だがそんなダロンを説得させたのはアマネだった。アマネは命懸けのイロウの愛に触れ、家を捨てる覚悟までした。イロウを責めるのであれば私も同罪だと、殺すのならば二人諸共殺せと。
ダロンは仕える身でアマネを殺める事など出来まい。身を引き千切るかの様な葛藤がダロンを襲う。
「アマネ様……それ程までにそやつに肩入れする意味はなんですか」
「愛よ。貴方には分からないかしら」
「いえ……私共はアマネ様を、お仕えしているお家そのものを愛しております。だからこそ、どこの馬の骨とも知らぬ輩に――」
「そんな広く浅い愛に私は靡かない。この人は言ったの。『いずれアカソに台頭し、必ずお前を幸せにする』と。ただ好きだからじゃない。だけれどじゃあ何かと問われれば答えようの無い真っ直ぐな愛を感じたの。家柄? 容姿? そんな物に囚われたくないのよ! 貴方は自分を殺してまで私の家に囚われて、それで幸せなの!?」
「アマネ様が幸せならば私はそれで良いのです」
「だったら幸せにしてみせてよッ! 私の幸せは彼なの! 彼が苦しむなら私も苦しむ! 彼が幸せなら私も幸せなの! 他人にどう思われ様が構わない! それが私の覚悟!」
「アマネ様……」
その後、ダロン率いる捜索隊は謎の失踪という形でアマネの家へと報告が入った。勿論、逃走したイロウとアマネの捕縛も失敗に終わり、捜索隊を指揮していたダロンも消息を絶つ。
台風が迫り来る時期の事だった。