第145話 ホーラの微笑み
(息が、でき……かふっ)
桃毒爪を受けて無事な筈は無かった。カズマは全身酸欠状態。指一本動かせなければ碌に声すらも上げれない。辛うじて膝を付き、地面に伏す事を免れようとする。しかし身体が動かない。小刻みに呼吸する様は陸に打ち上げられた小魚。
統合者の中でもそれなりの実力を持つカズマが、いとも簡単に倒されては面目が立たないだろう。ましてや報告を後回しにし、独断で行動した結果がこれである。
「あの、方に……ころ、さ、れる」
「あん? まだ息してんのか。しぶとい奴やな。あの方って誰や?」
「それは――」
「そんな事言える訳無いじゃない」
割って入ったのは、カズマの暴走に距離を置いていたカズキだった。
「まあちょっと漏らしてしまったから仕方無いから言うけど。どうせそれなりの答えが無いとしつこそうだから」
「当たり前やろ。気になる事言うたんはそっちやからな」
「ま、当然だよね。そうだなー、ボク達はある方からの使命を受けている。それは君達に深く関係している」
「言われんでも分かるわ。殺そうとしてくる時点で明白やろ。そんなもんハゲでも分かるわ」
「な、なんでオレを見るんだよ! ってかそろそろオレの固有名詞をハゲから変えてくれねえか!?」
「うっさいハゲ、黙っとき」
「うっさ……んぐぅ」
リムはどうにも敵わない。
「じゃあ、なんで狙われているんだろうね?」
「それを聞いてんやんか。回りくどいのは好きじゃないねん。スパァッと言えや」
「はぁ、あまりお喋りは好きじゃないんだけどな。まあいいか。じゃあ、御言葉通りに……世界の秩序を守る為」
「ハァ!? なんでや。アンタらはこの世界を崩壊させようとしてんちゃうんか!」
「うん、そうだよ。誰から聞いたかは知らないけど、間違ってはいない。ボク達はライカと現実世界の統合を目指してる。まあ、統合なんて綺麗な言葉を使ってはいるけど、実際はライカの破壊だよね」
優しい笑みが外套下から漏れ出る。未だに顔を見せないカズキは、ゆっくりと懐から懐中時計を取り出した。
「まあ、理由を話した所で納得してもらえるなんて思って無いから説得するつもりも無いんだけど。はい、ここまでで良いかな。あまり喋っちゃうとボクまで酷い目に遭いそうだ」
先程の戦闘は勿論見ていた筈。だが彼は臆する事無くマミ達へと足を進める。その躊躇いの無い前進は、マミを後退りさせた。
「あーあー、こんなになっちゃって。マミ・ナコシキ。あまりボクの友人を痛めつけないで欲しいよ」
今にも果てそうなカズマの肩に手を当て、懐中時計に色力を込め始めた。
「アカン! 逃げる気や!」
「逃げる? そんな事したらそれこそあの方に殺されちゃう」
懐中時計の針が徐々に速度を上げ、反時計回りに戻り始める。
「こんな状態じゃあ、ボクの能力を使わざるを得ないから見せてあげるよ。これで諦めてくれると良いんだけど」
「オイ、儂姫! 離れろ!」
「分かっとるわ!」
一足飛びに距離を置くマミとリム。時計の動く音が徐々に大きくなっていく。チッチッチッチ……。
「人って不思議だよね。時間が進む事はその事象が不可逆的だと同義。だけど人間はそれをあたかも元に戻した気になって、喜んで、泣いて、笑って、祝うんだ。馬鹿みたいだよね。実際に物質が元に戻る事なんて有り得ないのに。みんなそれに気付いてはいるのに、ただ酷似しただけの物を同じだと、再生したと歓喜するんだ。直したんだと豪語すれば、人はその力に縋る様になる。自分には出来ない修復を讃える。でもね、ボクからすればそれは新しく作り直しただけに過ぎないんじゃないかって思うんだよね」
「な、何言ってんだアイツ」
「だってそうでしょ? 物は全て原子レベルの細胞で構成されているんだよ? 有機物、無機物全てにさ。それを元の原子レベルまで直すなんて最早神様だって不可能だよ。でもね、ボクはそれが出来てしまう。と言っても直す、とは違うんだけどね」
懐中時計の針が更に加速して戻って行く。
「時間の女神はボクにだけ微笑むんだ。ホーラ、ボクの名前はカズキ・ホーラ。直すなんてそんな芸当は出来ない。ただ元に戻すだけ。回帰」
懐中時計から溢れ出た色力が、カズキの腕を渡りカズマの身体へと流れ込む。するとどうだろうか、先程受けた頬の傷が塞がっていく。いや、割かれた皮膚が下から上へと戻って行く。まるでジッパーの様にスルスルと。
「ウソやろ……」
「おいおい、マジかよ。こんなん勝てんのか!?」
そこには肩首を気怠そうに鳴らすカズマが立っていた。
「遅いんだよ。もっと早くしてくれねえと死んじまうだろうが」
「ごめんごめん、でもこの方が相手には効果的かなって思って。ほら見てよ。あと数刻で君は死ぬ筈だったのに、ピンピンしてる姿を見て絶句してるよ。これこそ君の望んだ絶望ってやつじゃない?」
「ハンッ! お前も憎たらしい事をするもんだぜ」
「お互い様でしょ? 最初からこうなる事は目に見えてたんだから。演技なんてしてないでさっさと終わらせよ?」
「結局オレ任せかよ」
「仕方無いじゃない。元々ボクは戦闘向きじゃないんだし。だから君に着いてるんじゃないか」
「まあな。さぁあああて!!! さっきはちょっと正気を失ってしまった様だが、もう大丈夫だ。愛に惚けた軟弱者共、絶望を味わえぇええ!!!! 絶望よ、広がれッッッ!!!!」
空を仰いだカズマの両手には。先程とは比べ物にならない程の特大のブラックホールを形成し始めた。
「ま、マズイぞ! 辺り一帯飲み込まれたらひとたまりも無い!」
「任せてリムちん! ミルが腕の一本でも落とせば止まるでしょ!」
躍り出たのはミルだった。と言っても既にその姿は無く、気付いた頃にはカズマの腕に切り掛かる寸前だった。流石の速さ。ミルが居れば大抵の先制攻撃は成功に終わるだろう。見えないレベルの速さは攻撃された事すら気付かない。
「君、リストに載ってたよね。カズマが殺り損ねた、ミル・オルドール。ふむふむ」
「え?」
腕を切り落とすはずのミルは、短刀を振りかぶったまま停止している。たが、ゆっくりと歩み寄るカズキは冷静にリストをペラペラと捲っていた。
「なるほど。常人離れした肉体運動による超高速戦闘、か。今のは確かに速かったね」
「ど、どゆこと? なんで動かないの!?」
「アハハハッ! 可笑しな事を言うね、君。動く筈無いじゃない、かッかッ! カアアァ!!!!」
止まっているミルに思い切り蹴りを入れるカズキ。勿論、止まっていたミルは防ぐ事も出来ずに腹部に強烈な一撃を食らう。しかし何度も、何度も蹴られるがミルには何の反応も無い。
「アハハッ! 全く痛くないんだけど☆ キミ、戦闘には不向きな――んくはァアアアアッ!!」
唐突に苦しみ出したミルは、目を見開き口から涎を撒き散らす。苦痛の声は、今まで聞いた事も無い悲惨なものだった。
「アハハハッ! これこれ! ボクが好きなのはこれなんだよ! 動き様の無い状態で攻撃を食らい、且つそれが無痛だと知った時の余裕っぷりからの油断。そこから始まる激痛に歪む顔、声!! 良いよネ!」
「お前は本当に趣味がワリぃぜカズマ」
「だって楽しいんだもん。もう一度味わってもらうよ。累累」
「ウッ! ふぐぁぁあ! あああ!! あぐぁっ! う、んぎぃい!!」
「ミルッッ!?」
「ボクは時間の女神に微笑みを授かったんだ。ホーラ、覚えておいて。ボクの名前だよ」
ミルの悲痛の叫びが響き渡る! まるで拷問でも受けているかの様な悲鳴であった。