第142話 希望を持って生きるには、
玄関先で男同士の怒鳴る声が聞こえる。物音に異変を感じ様子を伺いにきた隣人と、母を刺し殺した男が揉み合いながら遠退いて行く。
だが彼にはどうでも良い事だった。と言うよりかはそれどころでは無かったのだ。身体の力が徐々に抜けていく中、涙が流れる母の瞳をじっと見つめていた。
何故、母が倒れたのだ。男の目的は彼自身だった筈なのに、何故母が涙を流して倒れているのだ。庇ったのか? 何故。母は彼を散々な目に遭わせて来た。それなのに何故、庇ったのか。
何故? 何故母は彼に手料理を作ったのか。本を読んだから? 賢いから? だが何故。母は彼を散々な目に遭わせて来たのに。
何故? 何故母は本を読ませたのか。気を紛らわせる為? 思いやり? だが何故。母は彼を散々な目に遭わせて来たのに。
何故? 何故母は彼を見捨てなかったのか。息子だから? 愛情? だが何故。母は彼を散々な目に遭わせて来たのに。
見捨てなかった? 結果として彼も刺され、守る事は出来なかった。見捨てないのであれば、守るのであれば死してなお庇うべきだ。いや違う、立ち向かうべきだった。
日頃の男の言動から察する事は出来た筈。少年の事を疎ましく思い視界から消したかった。それを知っていた母。だが何故今になって守ったのか。
身を痛めて産んだ息子だから? であれば普段から邪険に扱う様な事はしない筈。いざ死を目前にすると守りたくなるのか。だが守れなかった。そう、この愛は偽善。そうに違いない。本当の愛であれば守れた筈。
彼の心は廃車工場に置き捨てられた軽自動車。
人を、物を、心を運ぶには一切問題は無い。だが馬力にも、耐久性にも劣るその車は容易にダンプカーに押し潰される。
硬く保っていた心の外側がメキメキと悲鳴を上げて拉げた。外皮を成さない剥き出しになった彼の心は、形を保てずに蕩け出す。
何が『希望を持って生きるには』だと。希望とは何なのか。希望を持つから絶望が生まれてしまう。絶望とは?
気が付けば既に陽は落ち、聞こえていた子供たちの声も今は無く、車のクラクションが時折耳を掠めていく。
母の涙は既に枯れ、血溜まりの泉も今や温もりを失った。彼の血も既に止まっている。痛みは無いが手足の感覚は有る。ゆっくりと起き上がり、未だ殺意の光が途絶えない刃物を手に取った。
徐に手首を切ってみる。痛くはない、硬い物が皮膚を裂いて行く感覚だけがあった。だが血は出て来る。
母は? 床に有る母の腕を刺してみる。痛みは無い、彼はそう確信した。痛みがあれば反応を示す筈だから。だがおかしいのだ、血が出ない。彼は何度も確かめた。腕を、胸を、腹を、首を。
彼の口角は上がっていた。これが絶望か、これが絶望かと。生きる術を持たない彼が絶望を知った瞬間だった。
数分だけの愉悦は、唐突に開かれた玄関によってあっけなく終わった。鍵を擦る音はしていない。母では無い、何故なら彼の目の前で倒れているのだから。
部屋の内側に押し開かれた扉の前に立っていたのはオスワルトだった。
「正直、アタシは気が進まないんだけどなぁ。マンセルが連れてこいって言うからさぁ。君、名前なんだっけ?」
「カズマ……」
「ふーん。カズマねぇ、もう気は済んだ?」
何回刺したか分からない右手の包丁を確認したカズマは、既に殺意の光が無い事に気付く。
「うん……君は血が出るの?」
「ん? そりゃぁ出るよ。試してみる?」
「うん」
カズマは殺意の無い刃物を、オスワルトの顔目掛けてゆっくりと近付けていく。勿論、彼女とて傷付けられたい訳が無い。切っ先に人差し指を当て、グググと押し返して見せた。
「ざーんねんっした! アタシはそんな物じゃ刺せないよーだ」
「なんで、おかしい」
「うん、おかしいよね。不思議だよね!」
「不思議……? この世界も不思議なんだ。ボクだけが絶望を知ってるみたいなんだ」
「なーるへそね。絶望かぁ、じゃあ絶望の知ってる人がいっぱいいる世界に興味はある?」
「無い……だって絶望を知る人はボクだけでいいから」
「んー面倒臭いなぁ。アチョッ!!」
オスワルトは全くもって惨忍である。いくら既に止まっているとは言え、全身に切り傷や刺し傷を負った血みどろの少年の腹部に正拳を突き立てたのだ。勿論加減はしている。その気になればいくらでも押す事のできるその力。絶妙な力加減で鳩尾に食い込ませた。
その場に蹲る様に膝を付くカズマをよいしょよいしょと引き摺って行くオスワルトは、横たわる彼の母の亡骸に声を掛けた。勿論、その声が届いたかはどうでも良かったのだが。
「カズマ君の面倒は任せてね! 次があれば、もう少し優しい愛をあげると良いよッ!」
ゆっくりと閉められた扉、部屋は暗くなりその世界の幕を閉じる。『希望を持って生きるには』、その本の裏表紙にはこう書かれていた。
『絶望を知る術は自身では見つけられないモノであり、与えられるモノだ。絶望を与えてこそ希望を抱かせる事が出来るだろう』。
その後、彼はマンセルらの介抱により快復へ向かうも、オスワルトしか行き来を許さない筈の刻の廻廊から忽然と姿を消したのだった……。