第140話 六畳の世界で
今から約三〇年前。一人の少年がこのライカの世界に導かれた。全身に傷を負い、痩せ細った身体は如何にも栄養失調。自力では立つ事さえも難しい程に衰弱していた彼を救ったのはマンセルだった。
暦刻の休息地である部屋の床に横たわり、虚ろな目と閉じ切らない口からは涎が垂れている。
「ねえマンセルぅ、ほんとにこの子なの?」
「ええ、この子は相当な力を秘めています。本来なら手順違いですが、命を落とすよりかは良いでしょう。回復した後に世界へと降ろしましょう」
「んーまあマンセルが言うなら良いんだけどー。アタシのご飯はあげないからね!」
「はい、この子は私が看ましょう。部屋を一つ借りるよ」
「ほいほーい」
オスワルトは扉を押し開き、刻の廻廊から繋がる別の部屋へと案内した。横たわる少年に毛布を掛け、優しく抱き上げるマンセルはこんなにも軽い少年が居たものかと、心底哀しくなった。
オスワルトの用意した部屋は寝かせる為のベッドのみ、とても簡素で窓も無い。痛みを与えない様、丁寧にベッドへと下ろすと頭に手を当て囁く。
「貴方はここで亡くなって良い存在ではありません。ゆっくり、ゆっくりと時間を掛けて下さい」
マンセルは部屋n扉を静かに閉じ、残された少年はただただ虚ろに目の前の壁の木目を眺めていた。
――ここは何処だろう。何も感じない。掛けられた毛布さえも重く感じるけど、それを除ける力も出ない。オレは助かったのか? あの腐った肥溜めの様な現実から漸く解放されたのか? ダメだ、身体から力が抜けていく。眠い、眠い、ね、む……。
「あーもう! ゴミ集めとけって言ったじゃぁん! これ全部捨てないと今日の晩御飯無しだからな!」
「おいおい、何だよこれーゴミ溜めじゃねえか。まだこんなガキ置いてんのか? 早くなんとかしろよ」
「もうちょっと! もうちょっとだから、ネ? それよりさー、こんな汚い所よりホテル行きましょうよー。私、もうガマンできなぁい」
「しゃーねーなー。んじゃ今日もヒィヒィ言わせてやっからな!」
「あーん、堪んなーい! 考えただけでウズウズしちゃうぅ。アンタ! 帰って来るまでに部屋綺麗にしとけよグズ!」
「……」
この女性は恐らく少年の母親。チャラチャラした見た目の男性と夜な夜な飲んだくれては朝帰り。帰ってくるなり少年に強く当たり、世話をする事も無くまた出掛けていく。帰ってくる意味の無い程の時間、生存確認とばかりに顔だけを見て、息をしている事だけを見届けてはいなくなる。そんな生活は今に始まった事では無かった。
(ああ、今日もご飯は無いのか。昨日まで取っておいたチョコレートももう無くなった。一昨日置いて行ったコンビニ弁当の残りはまだあったかな……)
少年はアパートの一室に閉じ込められ、まともに世話もされないペット。不定期に投げ込まれる食事は、まるで餌を与えられている家畜の様に粗雑。
食べる事しか生きる道は無い。だが、この現状を打破する為の力も頭も働かない程に弱っていた少年は、ただ与えられた餌を貪るのみ。
今が昼か夜なのかも分からない。ただ、あの母親が部屋に来る時は大体夜の臭いがする。締め切られたカーテンから漏れる光は太陽なのか、それとも団地の街灯なのか。そんな事はどうでも良かった。ただ投げ込まれた命の糧を必死に噛み締め、今日を、今を孤独に生きていた。
母親の言い付け通りに、覚束無い足取りで部屋に散乱したゴミを搔き集めビニール袋に詰め込んでいく。動作一つ一つで消耗する体力、小刻みに息をしては倦怠感と闘っていた。
六帖程の部屋を片付けるのに二時間。漸くスッキリした部屋だが疲れ切った身体は、膨れ上がったビニール袋を布団代わりにし、そのまま少年を闇に落としていった。
「――い。――い、起きろよ! 掃除したからって調子こいて寝てんじゃねえよ!」
「ん……」
これは朝の臭いだった。酒臭い母親に蹴り起こされ、少年の今日が始まった。と言っても何も始まらない。何もする事が無い、何もさせて貰えない、何も出来ない。そんな中、片付けられた部屋に投げ込まれたのは、高校一年生が勉強する教材。雨に打たれたのか、湿り気があり所々ふやけて破けている。
「おい、私より賢くなって貰わないと困るからこれ読んどきな」
「数学なんて、分からない……」
「ああ? そんなもん指折って数えりゃ時間掛けてでも出来んだろうが! 読んでも無い癖に最初から出来ないとか言ってんじゃねえよ! グズ! 今日はそれ全部読まないとご飯無しだからね! あと、アンタ臭いから今日は風呂入りな!」
「うん……」
「私は仕事で夜まで帰ってこないからこっちの部屋も綺麗にしといてね! お風呂入ったら掃除もよろしく!」
母親は、少年の返事を確認する事も無くまた部屋を出て行った。
少年は目の前のふやけた教材を手に取る。幾つもの数字と記号。指折り数えたところで解ける筈も無い、勿論だがただの算数とは訳が違うのだ。訳の分からない英数字の羅列と公式と枠組みされた文字。だがそれさえも彼からすれば難解である。
学校なんて行けない。そんなお金があればご飯が欲しい。服が欲しい。一般的な少年達が遊ぶであろうゲーム関連は高望みだ。今はただ腹を満たし、落ち着いた夜を眠れる事だけが彼の求めるものだった。
その望みは勿論彼自身が叶えなければならない。難解な文字列を紐解き、母に見せつける事で今日の糧を与えられる。その為に虚ろながら必死で教材を捲り始めた。
外は既に日暮れ色。時間も忘れて読み耽る。何度も何度も何度も読み、文字列の規則性を見出した。そう、誰の力を借りる事もなくとある公式を理解したのだ。分かるという事の楽しさが彼を次の問題へと駆り立てる。分かる、出来る、彼はこんな希望も無い生活の中にも楽しさを見つけたのだ。
気怠さと疲労感を漂わせる唸りにも似た声と共に、玄関の扉が開く。それは彼が再び緊張を強いられる時間を告げるものだった。
「おい、全部読んだのか?」
「うん……読めた」
「あっそ。で、風呂は?」
「入ってない……」
「はあ!? 掃除しとけって言ったじゃん! マジあり得ないわーアンタ今日のご飯抜きね」
「え、でも、これ全部解けた」
「読んだだけでしょ」
「解った……」
「え? ウソでしょ? どれどれぇ?」
母親は無造作に開いたページに有る問いを指差し、彼に解く様にと急いた。頭の中で計算が始まる。規則性に則った思考が順序良く且つ正確に答えを組み立てていった。
彼は答えを述べ、母親は次ページに書かれている解答を確認する。
「マジじゃん……アンタやるじゃん! 今日のご飯何がいい?」
「いいの……?」
「良いから早く言ってよ」
「じゃ、じゃあお母さんの卵焼きが食べたい……」
「……おっかしな子。いいよ、作ってあげる。待ってて、その間にお風呂入る事! 洗うのも忘れないでね」
「うん」
彼はこの本が好きになった。