第139話 豹変
「サァ! 王子様ァ! 足掻いてくれよォ!!」
カズマから放たれた大きな玉はまるでブラックホール。ゆっくりと、ゆっくりとザハルの潜む木へと迫る。ザハルは移動に長けた能力である影渡でさえも扱えぬほどに疲弊していた。
甘く見ていた訳では無い。影の防壁が効かなかった事は今まで一度も無く、しかも初撃で穴を空けられるとは思っても見なかっただろう。
だが彼も機転が利く。防御に回れないのであれば回避をと。戦いに身を置く者としてはその位は当たり前なのだが、脅威を前にして冷静な判断をする事は相当な手練れで無ければ難しい。
防げない攻撃を避けに避け、掠れば肉が抉られる恐怖。気を緩めれば間違いなく死に直結する傷を負う事は明白。相当な集中力と体力が必要なこの場面では、いかに戦いに慣れていると雖も限界はやってくるものだ。
(クソ……こんなところで限界が来るのか)
影に沈む事も出来ず、迫り来るブラックホールの位置を確認する。その時だった。ザハルは木陰から大斧を支えに立ち上がる。
「おおおおおォ!? 観念した様だな。今更命乞いをしてももう遅いけどなァ!」
「命乞い? ブラキニアの血は勇猛にして高潔。死を前にして怖じる程柔では無い」
迫るブラックホールにザハルはゆっくりと目を閉じた。目の前の空間が歪むのを感じる。死の直前ではこうも時間がゆっくり流れるモノなのか。いや違う、高速を操る彼だからこそ遅く感じているだけだ。
玉の引力により身体が前に少し引き込まれた時だった。
「曖昧な領域ッッ!!!」
ザハルとブラックホールの間、凡そ一センチ。リムの色素を吸収する灰半透明の壁が差し込まれた。ブラックホールは壁に接触するとみるみる小さくなり、そのまま吸収され消えて行った。難を逃れたザハルの膝は折れ、そのまま地面に倒れ込んでしまう。
「ふぅ、これが間一髪ってね。ザハルぅ! 大丈夫かぁ!!」
「大丈夫に見えるなら加勢なんか、しない、だ、ろう……が」
「まあな!」
カズマは声が聞こえる後方を振り向くと、そこにはリムら一行の姿があった。
「ああん? なんだお前等ァ!」
「なんだとはなんだ! チミこそなんだ! 天下のブラキニア帝国の王子様をよくもここまで追い込んでくれたなぁ!」
「ハァ? 何が天下のブラキニアだ! この程度で世に名を馳せているなんざァ滑稽だなァ!」
「カズマ、彼……」
隣に立っていたカズキは、外套の中から例のリストを取り出しペラペラと捲り出す。そこにはやはり一向の似顔絵と名前が書かれていた。
ザハル、ミル、タータにアル。見慣れない人物も複数。その中にはリムとマミの姿も描かれていた。
「彼らもアステリだね」
「おお! 一石何鳥だァ? 大収穫じゃねェか! あッ!!!! てめェ! この前はよくも!」
カズキの目に入ったのは、頭の後ろで手を組んでいたミルだった。
「あ! リムちん、アイツ! この前宿屋で襲って来た奴だよ!」
「ふーん。じゃあオレの敵って事で良いな?」
「敵、か。フフ、フハハハハハハ!! おいカズキ! オレ等が敵だってよ!」
「心外だね」
「何言ってんだお前。仲間を傷付ける相手は味方じゃなけりゃ敵に決まってんだろ!」
「敵ねェ。敵、か……そうか、オレ等は敵か。じゃあお前はオレの敵って事だなァ?」
「おいミル、アイツ大丈夫か? オウム返ししてきたぞ」
「分かんないッ! まともじゃ無さそうって事だけは言えるね☆」
「ヤイ統合者ッ! お前等の目的は分かってんだ! ズレを収束すると色々とマズそうなんだよね! それにオレの仲間を傷付けたって事はそれ以前に許されざる事ぉ!! いざ尋常に成敗してくれるぅ!!」
リムの口上にカズマの口角が上がる。薄ら笑みを浮かべたが直ぐにその口は閉じられ、目には怒りの火が宿ったが如く赤くギラついていた。
「仲間、仲間、仲間……仲間ってなんだ? 友達? 友情? 友情、友情……」
「あぁ、始まったよ」
リム達は周囲の空気が重苦しく圧し掛かる様な感覚に身構える。
溜息をついたカズキは、カズマから距離を取っていく。明らかに異様だった。
「友情……友情ってなんだ? 信頼? 信頼、信頼、信頼。信頼? 愛? 愛、あい、アイ……アイ?」
「おい、狂ってきたぞアイツ。オレらなんかしたのか?」
「なんかヤバそうだね」
カズマの狂気じみた言動に一同は更に警戒を強めた。纏っていたカズマの外套が揺れ動き始める。足元の地面が徐々に黒く変色し始め、外套が吸い込まれる様にチリチリと千切れていく。
上半身の外套を剥いだカズマの姿にリムは驚きを隠せなかった。それもその筈。青年と呼ぶにはまだ早い容姿。
短く整えられた黒髪は、高校生のバスケットボール部に居そうな爽やかな印象を与える。そう、明らかに現代の成人に満たない容姿だった。身長は一六〇センチ程と高くは無く、だぼっとしたタンクトップからは少年にしては良い筋肉の付き方だ。細身の中にも活き活きとした筋はしなやかさを併せ持っているかの様に思わせる。
下半身は脱いだ外套がそのまま裾が千切れたロングスカートになっていた。
しかし、リムが驚いたのはそれだけでは無かった。露わになっている肌には無数の痣、打撲痕の様にも見える。しかも痛々しい切創痕も見えた。どうなればそこまで傷だらけになるのか。首元から肩、両腕や脇腹と、至る所に傷が見える。
「お、お前。ザハルを散々な目に合わせる程強いと思ったら傷だらけじゃねえか。なんだ、大した事ねえな」
「アイ、アイ、あいなんて。愛ってなんだ?」
「ダメだ、聞いちゃいねえ」
「カズマはこの世界では無傷だよ」
全く意味の分からない言葉を発したのはカズキだった。カズマの異変に気付いた為、巻き込まれぬ様遠くから補足を入れる。
「無傷って、どこを見たらそう言えるんだ? 統合者ってどいつもこいつもおかしい奴等の集まりなのかな?」
「この世界に来てからカズマは傷を負ってない」
「……?」
リムは先程のマンセルらのやり取りを思い出していた。
(統合者は現世から転移してきた者も多いって言ってたな……こっちに来てから無傷。もしかして現世の状態を引き継いでいるのか? だとしたらオレの状態から考えると辻褄が合わないな。オレは姿形まで変えられたのにアイツは現世の傷痕? を残したままこっちに来たのか?)
「おいハゲ! 何怖気づいてんねん。お前、あんだけ啖呵切っといて足が地面にへばり付いとるやんちゃうやろな!」
「は、ハァ!? 何処が! 見ろ! しっかり離れるわ!」
リムはマミの煽りを真に受け、その場でピョンピョン跳ねて見せた。
「ダサいでお前。冗談真に受けて跳ねるとか、兎かいな」
「キィィィィィ! お前、許さねぇからな!」
「ダレダ女。そいつの友情か?」
もはやカズマは言葉もおかしい。身体の周囲がどんどん黒い靄が掛かり、今にも色力が弾け飛びそうである。
「ああ? 儂か? 儂はここナコシキ家の長女、マミ・ナコシキや! 訳分からん事言うとらんと掛かってきたらどーや!」
彼女は煽り癖でもあるのか。明らかに感情を逆なでする様な言葉を発する。
「ナコシキ……家? 長女? 長女、長女……チョウジョ、愛、アイ、あいされてきた……」
「せやなー、少なくとも育ててもろたんやからボチボチの愛はあったんちゃうか?」
「……アイ、された……愛シテもらッタ」
「せやな」
人間の口調とはとても思えない。しかし、マミの言葉にカズマは更なる豹変を見せた。
「アイぃいいいいいいいいいいいいいいいいい! 愛なんか無いィイイイイイイイイイ!!」
カズマが言葉ともならない咆哮を上げ、身体から溢れ出る黒く淀んだ空気を周囲に飛散させた。